メモログ

トィッターで書くには長くオナニ〇が過ぎる事を書きたいと思っていた。

論点のズレのズレ

持論の補強の為に論点が絶妙にズレた意見を言う流れ、もしかしたら(という一例で全員がそうという訳ではない)持論、意見に個人の人格を投影しているせいで、反論された時に人格否定されたという思い込みが発生して、自己の正当性を補強する為、現実逃避の側面があるのでは?と思い至る。

もしくは、反論された意見が正しかったと認識してしまった場合、逆説的に意見に人格を投影した自分で自己否定をする事になるので、そうした間違った自分の受け入れられない状態にあり、防衛的な反射行動なのかもしれないなあ、とも。

 

海外では頻繁に議論、即ちディベートが行われているが本当はどうなんだろう?

日本では話し合いよりも同調や仲良しこよしの輪を形成する事が良いとされるので、意見交換は殆どされる事がない教育環境ではあったかなあと、今にして思えばそう感じる。

これはカリキュラム的に楽というか、誰が教育しても同じ成果を得られるメリットがある。考えたら教員側も生徒側も同じ立場なのだね。お互いにプログラム化される事で、誰でも一定以上の成果を出せる仕組みなのかな。

 

かと言って、海外の方が議論慣れしてるのか?とはあんまり思えない。行った事も生活した事も無いから。行った事はあるけど、そこまで違いを経験したような出来事も無かった。

意見に人格は宿るのか?俺は全く思えないけど、そう感じる人も居るだろうという想像は容易。