メモログ

トィッターで書くには長くオナニ〇が過ぎる事を書きたいと思っていた。

最近なんやかんやで言語的に物事を整理する事が無くて、著しい言語可能力の低下が感じられるので、久しぶりに書いてみようと思う。最後に書いたのが250日前だった。

 

ちょっと前に読んだ小説で知性とは何か?生物であれば知性が宿るのなら、単細胞生物にもあるはず。しかし、ああした生物には知性が見受けられないのでは?という問に、知とは複合的な生による現象と答えていた。

これ、ずっと考えてきた事に対しての、素晴らしいぐらいの簡潔で完璧な答えで、ものすごい感動した。

その論理を言語化できるか分からないけど、なんとか頑張ってみよう。

 

およそ知性と呼ばれる概念は、人間に見受けられる。動物にもそうした概念があるのでは?と思われるかもしれないが、記憶からサーチした事象と記憶を結びつけ、そうした軌跡をなぞる行為であるように思われる。

知性とは未来に賭ける意思のようなものである。

 

人間は多面的な生物であると思う。それは心理学で言うペルソナのような、状況やその場に居る人によって言動を変えるような、そうした人間の複雑さや対応力の事。

その多面性と共に、人間の持つ精神や心もまた多元的な概念としてあると感じている。

精神や心とは人間のどこに宿るのか、物質的な存在では無い。

精神や心は脳に宿るのか。脳の一部を損傷した患者が、人格が変わったケースを聞いた事がある。人格と精神、心は同一となり得るか?精神性と心とは、どういった時に感じるだろうか。少なくとも、人となりを感じた時には精神性を見出す事はあまり無い。心は人となりから多少なりとも感じられるかもしれない。

人となりとは人格とも言える気がする。人格とは多面的な人間の性能の一面であると思う。その多面性の中の一つに心が宿っているのだろうか。

精神性はもっと中心に近い部分、人間を形成する核のような印象を受ける。精神性が心を作り、心が感情を生み、感情が人格に影響を与え、人格が人間の多面性をもたらす。

 

物質的な概念として、精神や心はどこに宿るのか。脳は記憶や感情を制御している。心が生み出した感情を制御している。心はどこに宿っているか。脳にあるのだろうか。しかし少なくとも心という器官は無い。精神という器官も脳には無い。人間の臓器には、精神と心は無い。感情と記憶は情報として脳で処理している。精神と心はどこで処理しているのだろう。少なくとも物質的なものとして認知する事ができないように思う。精神や心は多元的なものとしてあるのでは無いだろうか。

 

知とは複合的な生による現象である。

単細胞生物は少なくとも知性を持った生物であるようには見受けられない。単細胞生物による生命活動に、知性は感じられない。複合的な生とは何か。

人間は多面的で多元的な生物である。精神や心といった、物質的な概念からかけ離れた機能を有している。多能的な生命活動は、複雑に成り立ち、多数の単純な生命活動の組み合わせとも言える。それが絡み合って形成された生命活動こそが、複合的な生として見られ、知という現象が起こるのではないかと思う。