メモログ

トィッターで書くには長くオナニ〇が過ぎる事を書きたいと思っていた。

主観、客観

めっちゃ暖かい。花粉で死にそうになってるみんなー。僕は特に発症していないので、ここ20年知り合い見てると辛そうだなと思った。

 

主観的な意見が、感情的な意見と思われるようになってるのかな、と思う事がちょいちょいある。逆に客観的な意見、と言えば冷静さとか、ちょっと上手い意見みたいな印象になってるのかなとも感じる。

 

主観とは個人の視点である。客観とは個人の視点から離れて、多角的に物事を見る事である。自分はめちゃざっくりと大体そんな感じで捉えている。

 

しかし、個人はどう頑張っても個人にしかなりえないのだ。いや、俺は客観的な意見を言える、と思っている人、君多重人格?ジョークだよジョーク。

 

個人が客観的な意見を持つ為には、多面的な価値観を持つ事だと思う。

意見とはある価値観から観察して、そこで印象や感想みたいなもので、それが正解かはその物事に対しての経験や知識で近づけることができる。

 

客観的な意見とは、複数の価値観から出た意見をまとめ、物事に対してフラットな目線での意見の事なのかなと思っている。

個人が客観的な意見を持つには、多面的な人間性を獲得する事だろうな、と感じる。

 

要は自分の意見に、反対意見を持てるかどうかという事。

そして客観とは、複数の主観で成り立っている。結局のところ、客観も主観であり、客観性とは、複数の主観を持つ事でそうした経験や知識から出てくる人間性みたいなものではないか。

 

個人はどれだけ成長しても生きても、主観から脱する事はできない。客観性を獲得するには、自分や周囲の意見に疑問を持ち続け、考え続けなくてはいけないのではなかろうか。

 

 

完璧マン

寒いと思ったらそうでもないし、でも若干まだ寒いが家から出なければそうでもないけど、寒いものは寒い。

 

完璧な人間は居ない、と言いながら他人に完璧な人生を求める人が居る。どういう心理だろう。別に当人が完璧な人生だろうが、自分に不利益が無ければ、野垂れ死のうが何しようがなんでも良くない?良くなくない?

 

例えば自爆テロしようとしてる人が居て、それはもちろんダメだし知り合いなら止めるだろうが、実際それで自分になんの関係も無ければテレビのニュースを見て「大変だなあ」ぐらいで終わる人が殆どだと思う。あるいは、「今日の仕事休みにならないかな」ぐらい。否定したいから極論を述べた。

 

他人の人生に完璧を求めるのは、潔癖症の傾向が強い。

自分の見える範囲の汚いものを排除したい。自分の思った通りの綺麗なものに囲まれていたい。

結果論から正論を述べる事で、相手よりも優位な場所に居たい。相手を正してあげたい。自分は正義であるから、悪を裁くのは気持ちが良い。

自分は常に安全な場所でありたい。それでありながら、自分以外の誰かが汚い事をしてくれて、自分は綺麗な場所から動く事無く綺麗なままのものを眺めていたい。

 

完璧な人間は居ない、といいつつも、完璧なシステムを人に求める。しかし、自分のミスは笑って許して欲しいという願望が強いかもしれない。甘えん坊か?自分はまさしく、自分以外の誰かが上手い事やってくれて、美味しい思いをしたい人種だ。

 

動く事無く万事がベルトコンベアみたいに、オートで進んでくれれば完璧な生活を送れる。早くそういう社会になってくれ。

 

話変わって、SF小説でよくある全てが管理されているユートピア系の世界観の中で、何の疑いも持たず与えられた義務をこなして、不自由の一切無い生活。あれに憧れる。

こういう小説の中で、大概主人公は世界に疑問を持ち「これで本当に良いのか?自由とは?」。それで良いんだそれで。変に動かすな。

しかしキーキャラクターが現れて、主人公に世界の真実を伝える。主人公は世界からの脱出を目指し、初めて目標の為に進んでいく物語。まあそんな小説があるか分からんから、思いついたの適当に書いたんだけど。

 

今でも心は14歳のままの男子諸君は、もしかしたら自由とは何かみたいな命題を持っているかもしれない。

自由とは不自由さに包含された、要はルールの中にあるもので、破る事では無い。

ルールから脱却し、不自由さから開放された時点で、自由と不自由の境界は無く、同一視されてしまう。

不自由さがあるから自由を感じる事ができて、自由な生き方を模索できる。有限の中にあるから、選択する権利と後戻りできないリスクを持つ。リスクがあるから、最善、最適を選ぶ為に考える。

 

話戻って、完璧な人生は無いが、完璧であろうとする意思が不自由なルールの中で自由さを選び、その瞬間にしか得られない最善を探す。

他人に完璧を求めるよりは、もっと自分を見た方が良いと思う。自分の人生は自分だけのものだから、他人の人生なんか気にしてる時間も無いし、そんな余裕も無い。

人の価値

アイコンを変えたが特に意味は無い。このAAはかなり気に入っている。勢いがある。

 

価値の無い人間は居ないという事をよく聞くが、嘘だと思っている。価値の無い人間は沢山居る。

 

お金は社会的に見て絶対的な価値になるが、人の価値というものは相対的なもので、コミュニティの中で変わる。絶対的なものでは無い。

生きているだけで価値のある人間というのは、それまでの人生の中でそうなるだけのプロセスがあったからだ。あるいは、周囲がこれからの期待として捉えている。それそのものが価値あるものではない。

 

例えば、職場で価値のある人間というのは結果、成果をあげる人間の事である。実直に仕事をこなして貢献する事で価値が高まる。

しかし、組織、会社、社会というのは人の集合である。結果がそうしたコミュニティの価値を高めるような貢献に繋がるが、そこに存在する人間にとっての価値とはまた別の話。

人の集合であるコミュニティの中で、価値を高めるにはコミュニケーションを取る事が最も簡単で効果が高い。要はそのコミュニティの中で、この人なら自分にとって”良い人”である、と認識してもらう事。

 

コミュニティは人の集合で成り立ち、そこからアウトプットされる結果で価値が高まるが、そこに集まっている人間同士の中で価値が高まるとは限らない。≒だと思う。

 

また、ある人にとっては価値があっても、別の人にとっては価値の無い場合が多い。というか基本的に人間関係はこのパターンである。相対的。

 

自分とAさん、Bさんが居るとして、Aさんとはよく仕事をし話もし、お互いに価値のある人間同士という認識だが、Bさんとはあまり接点が無くお互いに無価値である。しかし、AさんとBさん同士はコミュニケーションを取り合って、お互いに価値のある人間同士という認識だとしよう。この関係で物事が上手く回っている。

 

その場合、コミュニティとしては結果が出されコミュニティとしては自分の価値が高まっているが、Bさんとはなんの接点も無いので、コミュニティの中での価値は低いままだ。

とは言え、これはただの例えなので、Aさんが居なくなった場合どうなるか、というと普通はどうもならない。居なくなったAさんの代わりを誰かがするか、近い将来自分とBさんに接点ができ、お互いの価値を認識し合うだろう。普通のコミュニティならそうなる。

 

価値の無い人間は居ない、は嘘だと思うが言い換えるなら、価値を認識していない人間同士は沢山いるだろうか。観察すれば価値が生まれる。

 

逆に言えば、このコミュニティの中で結果も出さず、コミュニケーションも取らず、本当にただ居るだけの人間ならば、そこに価値は無い。

 

 

 

 

新しい事をしたくないという心理

ファッキンコールドが続いている。現在進行形。寒いのも嫌だし暑いのも嫌なので、本当に家から出ずに仕事をしたい。

 

新しい事とは言い換えれば変化であり、新しい事を覚えたくない、したくないというのは、つまりは変化したくないという事である。

しかし、環境の変化は、今まで自分にとって最適にする為に行ってきた調整を壊すという事でもあり、破壊と再構築を行う事でもある。

 

新しい事をしたくない心理を、一方的に批判する事はできないが、かと言って許容してばかりでは先に進めない。現在の環境に、両方の思想のグループがあった場合、どちらか一方だけを贔屓にする事は難しい。落としどころを見極めなくる必要がある。

 

一方で、個人で新しい事を嫌うという事は、単にエネルギーが不足しているだけの事が多い。脳みそと身体が、新しい事を覚えるリソースが足りていないからだ。

 

子供の時は新しい事だらけだった。経験して知識を蓄え、予測できるようになると最適なパターンを構築する。最小限の労力で最大限のリターンを見込み、安定した生活を形成するようになる。

安定した生活は波が無い。波が無ければトラブルも無い。あっても予測の範囲内であればスムーズに対応し、精神的に不安定になる事が無い。

言いようの不安は恐ろしく、安定した生活とは恐怖の予防の為でもある。大切な事だと思う。

 

どう不安と折り合いをつけるか、また許容するか。人の社会は一人では無い。どんな言動にも責任は伴い、それを無意識に求められる。

変化する事は好きな事だが、大きな変化を実行するにはよく吟味し、その場でも将来的にも後悔しないような選択をしたいなと思う。

雑記

近頃文字をアウトプットする事が無いなと思い、そういえばブログページ作っていたと思い出して、また書く事にした。文字を出力していかないと、どんどん忘れていく気がする。

 

テレビを見なくなって十数年経ち、世間の情報もネットで軽く見るぐらいの生活をしていると、旬な話題が全く分からず芸能人も知る事が無く、自分の中でも有名人は未だに妻夫木のオレンジデイズで止まっているし、今でもうたばんや鉄腕dashが放送されていると思っている。鉄腕dashは現役だったわ。

 

この10年で小説、映画、音楽、絵、フィギュア、自転車、絵画やアート、写真、ファッション、インテリア、ゲーム辺りの趣味を遊んで、今でも続いてるのはこのうちのいくつかで、たまに当時はまっていた興奮をまた経験したいと思っては軽く触ってみるも、いまいち同じ経験を得ることが無い。経験を積むことは知識を得る一方で、鈍化していく感性を犠牲にした結果なのかもしれない。良い事かどうかは分からんが。

 

多趣味な結果、よく言う一般的な生活を犠牲にしたような気がしないでもない。数年前にはまった格ゲーで知り合った友人達を見ていると、ふと感じる事がある。

 

ある一つのコンテンツに時間を捧げた故に、尖った感性を持ちながら、およそ一般的とは言い難い感覚を持って生活している。もしやアーティストなのでは?揶揄では無い。自分には持っていないものだから、羨ましいものだ。

 

本当は年始に始めた方がキリの言いスタートになったかもしれないが、年始はたぶんパソコンを触る環境にないので今書いた。

 

またそのうちなんか書きにこよう。ここはオナニ〇日記。考えた事だけを書くところなのだ。そのせいで、たぶん一記事内でテーマが飛ぶ事がある。自分の為にもなるべく一つに絞ってまとめておきたい。