メモログ

トィッターで書くには長くオナニ〇が過ぎる事を書きたいと思っていた。

個性

随分前に書いたような気がするが正直もう覚えていない。なんとなく新しく言語化してみようと思う。

大多数の人は自分が他人にどう思われているかを気にする。これは言い換えると、『自分が考えている自分という人間(個性、キャラクター)』と『他人から見た自分という人間』とのギャップを気にしている。

このギャップは、自分という人間を明確に定義している人間(思い込んでいる人間)は気にならず、自分という人間が虚ろであり、どういう人間が好まれるのか?を模索している人ほど気にしている。

自分という人間を定義する事は、普段から自分という人間の行動原理を自分なりに説明できるかどうかを行っていると、自ずと見えてくる部分でもある。他人にどう思われるか、好まれるようにを前提にしていると、自分の行動原理が縮小し他人からの視線に占領される。個性とは見せる為のものでは無い。自分なりに行動した結果、それらの蓄積によって見えてくる輪郭のようなものだ。

 

ギャップを埋める為にすべき事は、自分が自分を理解する事だろう。自分という人間性の輪郭を掴むことだと思う。

個性とは何もせず、内から自然とにじみ出るものとでも言いたげな雰囲気を感じる事がある。そんな都合のいいものは無い。人間は成りたいと思ったものにしか成れない。逆に言えば、成りたいものが無ければ何者にも成れない。

理想があって、それに邁進する事で初めて人間性を獲得する。かなり誇張しているがそういう道筋があって、ようやく自分という人間性の輪郭を掴む事ができる。

 

この輪郭を知る事無く、知ろうとする事も努力もせずに居るとその輪郭はぼやけたままで、自分という人間を定義する事ができない。

どんな人間になりたいのかを決め、そしてその人間性を自分なりに説明できるようになり、そこで現時点の自分とその理想とのギャップを埋める行動を起こしていれば、自分という個性が身についてくるのでは無いだろうか。

 

個性が無い人は、他人からの評価を気にする。そして他人から「こういう人間だよね」と言われると、自分という個性を獲得した錯覚を起こし、それを自分という人間と定義する。そして自分という人間をわかって貰えたことに嬉しくなる。

 

逆に自分という人間を強烈に定義している人間は、他人にどう思われようが気にならない。逆説的に、他人の事を気にしない為に、他人の為に自分を変えられない。一般的には強い人間のように思われているがガラスのようなもので、傷は付きづらいが、破壊されるのは一瞬である。

 

最近なんやかんやで言語的に物事を整理する事が無くて、著しい言語可能力の低下が感じられるので、久しぶりに書いてみようと思う。最後に書いたのが250日前だった。

 

ちょっと前に読んだ小説で知性とは何か?生物であれば知性が宿るのなら、単細胞生物にもあるはず。しかし、ああした生物には知性が見受けられないのでは?という問に、知とは複合的な生による現象と答えていた。

これ、ずっと考えてきた事に対しての、素晴らしいぐらいの簡潔で完璧な答えで、ものすごい感動した。

その論理を言語化できるか分からないけど、なんとか頑張ってみよう。

 

およそ知性と呼ばれる概念は、人間に見受けられる。動物にもそうした概念があるのでは?と思われるかもしれないが、記憶からサーチした事象と記憶を結びつけ、そうした軌跡をなぞる行為であるように思われる。

知性とは未来に賭ける意思のようなものである。

 

人間は多面的な生物であると思う。それは心理学で言うペルソナのような、状況やその場に居る人によって言動を変えるような、そうした人間の複雑さや対応力の事。

その多面性と共に、人間の持つ精神や心もまた多元的な概念としてあると感じている。

精神や心とは人間のどこに宿るのか、物質的な存在では無い。

精神や心は脳に宿るのか。脳の一部を損傷した患者が、人格が変わったケースを聞いた事がある。人格と精神、心は同一となり得るか?精神性と心とは、どういった時に感じるだろうか。少なくとも、人となりを感じた時には精神性を見出す事はあまり無い。心は人となりから多少なりとも感じられるかもしれない。

人となりとは人格とも言える気がする。人格とは多面的な人間の性能の一面であると思う。その多面性の中の一つに心が宿っているのだろうか。

精神性はもっと中心に近い部分、人間を形成する核のような印象を受ける。精神性が心を作り、心が感情を生み、感情が人格に影響を与え、人格が人間の多面性をもたらす。

 

物質的な概念として、精神や心はどこに宿るのか。脳は記憶や感情を制御している。心が生み出した感情を制御している。心はどこに宿っているか。脳にあるのだろうか。しかし少なくとも心という器官は無い。精神という器官も脳には無い。人間の臓器には、精神と心は無い。感情と記憶は情報として脳で処理している。精神と心はどこで処理しているのだろう。少なくとも物質的なものとして認知する事ができないように思う。精神や心は多元的なものとしてあるのでは無いだろうか。

 

知とは複合的な生による現象である。

単細胞生物は少なくとも知性を持った生物であるようには見受けられない。単細胞生物による生命活動に、知性は感じられない。複合的な生とは何か。

人間は多面的で多元的な生物である。精神や心といった、物質的な概念からかけ離れた機能を有している。多能的な生命活動は、複雑に成り立ち、多数の単純な生命活動の組み合わせとも言える。それが絡み合って形成された生命活動こそが、複合的な生として見られ、知という現象が起こるのではないかと思う。

正しさの視点

最近SNSとかで批判、批評の正義のハンマーでぶっ叩いてる光景を目にするんだけど、とは言ってもまあこの行為自体は昔からある行為で、テレビに向かってブツブツ独り言いってるのと同じで、それがネットで人の目に触れやすくなっただけなんだろうね。

 

正しさとは一般的な認識で言えば、道徳や倫理だったりつまるところ一般性、言い換えれば客観性があるか?という視点に近いと思うんだけど、どうだろう。

客観性とは多数の主観の集合体であって、これは主観から逸脱はできない証明でもある。個人の視点はどこまで行っても個人でしか無くて、客観性とはそういう個人の視点を幾つも内包する事で認識できるようになる。

正しさとはこの客観性に沿ったもので、批判対象の善し悪しを決める前例と比較して個人が判断しているのでは?という想像。

そこに正しさは本当にあるのか?と思いながら、正しさってなんだろうなあとも思っている。

客観性とは多数の主観の集合体であり、正しさとはその客観性を包含していて、そして正しさとはその時代に沿った倫理観も同じように包含しているように思う。

その時代に沿った倫理観とは、たぶん一般性だと思う。どの時代にも一般人が全ての基準になっている。ちょっと語弊があって、先導者が居て、それに倣う一般人が増えればそれが一般性になるというお話。先導者が大衆を誘導するけど、時代は一般人が築くように感じる。

 

その一般性が正しさと言えば、時代によってそれは変化していて、つまり正しさとは不変では無いという事になる。

批判対象を正しさと比較した場合、その時代に沿った正しさ、客観性、一般性から判断するのだろうか?

その正しさや客観性や一般性に、本当に正しさあるのか?といつも考える。だからあんまり批判とかできないんだけど。

 

論点のズレのズレ

持論の補強の為に論点が絶妙にズレた意見を言う流れ、もしかしたら(という一例で全員がそうという訳ではない)持論、意見に個人の人格を投影しているせいで、反論された時に人格否定されたという思い込みが発生して、自己の正当性を補強する為、現実逃避の側面があるのでは?と思い至る。

もしくは、反論された意見が正しかったと認識してしまった場合、逆説的に意見に人格を投影した自分で自己否定をする事になるので、そうした間違った自分の受け入れられない状態にあり、防衛的な反射行動なのかもしれないなあ、とも。

 

海外では頻繁に議論、即ちディベートが行われているが本当はどうなんだろう?

日本では話し合いよりも同調や仲良しこよしの輪を形成する事が良いとされるので、意見交換は殆どされる事がない教育環境ではあったかなあと、今にして思えばそう感じる。

これはカリキュラム的に楽というか、誰が教育しても同じ成果を得られるメリットがある。考えたら教員側も生徒側も同じ立場なのだね。お互いにプログラム化される事で、誰でも一定以上の成果を出せる仕組みなのかな。

 

かと言って、海外の方が議論慣れしてるのか?とはあんまり思えない。行った事も生活した事も無いから。行った事はあるけど、そこまで違いを経験したような出来事も無かった。

意見に人格は宿るのか?俺は全く思えないけど、そう感じる人も居るだろうという想像は容易。

 

論点のズレ

意見交換だったり議論だったり話し合いだったりで、たまーーに論点のズレというか認識のすれ違いみたいな事が起きてめちゃくちゃ混乱するんだけど、ああいうズレって本人は全然認知してなくて、本当に無意識に発言してる事が往々にしてある。

 

実際自分もその場では反論と認識して応じるんだけど、あとから考えてみたら論点違うな?って思い返す。

 

意識としてはきっちり連続的な意見としてあるんだけど、実際は持論を通したい為のいわば方便めいたもので、プライドが高くて(褒め言葉)知識があると特にしがち。

でもこの論点のズレは本人は気が付いてない場合が多々あって(そもそも知っててやってたら詐欺師かアジテーターみたいな連中なんだけど)意識的に気が付くことが難しい。

俺は自分に対して常に懐疑的で、発言しながら「本当にそうなのか?」と思うレベルで疑い深いんだけど、他の人はやっぱり自分の事を信じられてるんだろうか?俺は自分が一番信用できない。他人も同じかちょっと下ぐらいで信用していない。

 

自分を信じて生きるってどういう心境なんだろうか。やっぱり万能感に包まれてるみたいな心持ちなのか?

とは言え、常に信用してないながらも別にそれで生き辛いと感じた事は無いし、大した違いはないかもしれない。

 

議論や話し合いの中で、この論点のズレに気がついて上手く方向修正できれば、もっと価値ある意見交換できたかもなあと思う事例が沢山あって、そこはちょっと悔しいんだよね。もっと客観的に頭の回転が早くなりたい。

ちょっと前にあった京アニ放火事件、正直京アニは全然通ってないんだけど、それでも事件の内容は本当にきついなって。

人がたくさん死んだからとか、自分自身が絵描く人間だからそういう面でとかもあるけど、1人の凶行で奪われた不条理さとかそういう理不尽とか感情的なきつさっていうか。

しばらく全然気持ちの整理できなくて久しぶりに悲しい感情だけで生活してて、まあ2、3日で回復はしたからその程度ではあったんだけど、これが当事者とか親族だったらまじできついだろうな。悲しさは想像できるけど、悲しさの度合いは想像できない。

 

https://twitter.com/WintersGreen/status/1152162732285710336

 

事件のあとにしばらくインターネッツイキリ界隈では専ら命は平等、こういう時だけ悲しんで世界ではいつでも人が死んでてそっちは無関心なのか的な話で持ちきりになりまして。まあよくあるお悔やみツイートで関心あります的なやつ。

ああいう悲しんでる自分人間できてるでしょ感というか、そういうのが感じられてイラついてる人がたくさん居た訳だね。気持ちはよく分かる。

 

悲しみとか寂しさとか、感情は見た目では度合いなんかわからない訳で、ネットなんかではそもそも姿すら見えないから尚更分かるわけがなくて。

それでも悲しいっていう感情はやっぱある訳で、自分自身でも悲しくはあったけど、それがどのぐらいの悲しさなのかはちょっと分からなかったんだけど、それでも家族が死んだ時ぐらいには悲しいとは感じた。悲しさアピールと思われるだろうけど、悲しいもんは悲しい。

 

命は平等ってのは正直なところ、それこそ嘘つけとは思う。

俺は自分の知り合いや家族や近しい人が居なくなった感情を、見ず知らずの他人にも同じようには抱けない。本当にできる人は居るのか?聖人なのでは?それか人に無関心の植物とかそういう存在ぐらいでしょ。

 

命の平等さって、聞こえは良いけど要はそういう事だと思うんだよね。誰に対しても同じ感情を持つっていう。

今回の件で言えばそのきついなっ思ってしまえる悲しさを、地球の反対側で今でも死んでってる紛争地域の人にも全員感じろって無理じゃないか?俺は無理だし、毎回そういう感情持ってたら心が壊れる。

 

自分の周りの人間が死んだら悲しいけど、それだけで精一杯だね。

ただ可能な限り、近しい人が悲しんでたら何かできないかなとは思うし、何かしてあげたいとは思う。そっとしておいてほしいなら、そっとしておく。

結局感情に支配されちゃうね。

レディ・プレイヤーワン

冬コミに向けて原稿作業真っ最中なんだけど、ちょっと気分転換がてら文字でアウトプットしとこうかなってね。オリジナルものばっか描いててリソースも枯渇気味だから、映画とかそういうの観たいけどそういう時間も無いし困っちゃうね。

 

結構前に観たレディ・プレイヤーワンって映画の感想でも書いとこうかなってペンタブちょっとかたして今キーボード手前に引っ張ってきたんだけど、まあコーヒー飲みたくなってきた訳でね。ちょっと淹れてこようかな。

コーヒーにしようかと思ったけど、気が変わってカフェオレにしたわ。美味しい。

 

いつも通りネタバレ全開の感想。

レディ・プレイヤーワンなんだけど、やたらと周りで『オタク向け!!』って持て囃されてて、どんなんかなって観に行ったんだよね。正直スピルバーグ作品だし、内容も一切情報シャッタアウトしてたから結構ワクワクしてたんだけど、最初の印象は「映像すげえ!」「どこがオタク向けだ?」だったんだよ。

ビジュアルは言わずもがなで、ここは俺がわざわざ言う必要無いからかっ飛ばすね。オタク向けって言われてた部分が観た印象だと、全然感じなくてお前らどの辺にどういう印象で感じたんか?ってめちゃくちゃ聞きたくなった。

オタク向けのゲームキャラや要素(デロリアンとか金田バイクとかそういうの)があるのは見りゃ分かるんだけど、ぶっちゃけそれだけ?って感じだよね。ただそういうキャラや要素出せば全部オタク向けなのか?っていう。安すぎない?オタク。

 

ゲームクリアへ対する情熱や、外圧的な相手や劣等感のある主人公が立ち上がって、周りの仲間たちと共闘していわゆる神話のゴリアテ討伐みたいな、巨悪(っていう位置づけが勧善懲悪で分かりやすいから当てはめるけど)を打ち倒すってストーリーがオタク向けか?っていう。別にオタクじゃなくても楽しいよなあそれ。パシリム1の方が500億倍オタク向けだったよ。

でもオタクにも受けてんだからまあ世間ではそういうオタク層が居るんだよなあ。ちょっと安っぽい気はしたけど、そういう時代なんだなっていう。

俺がオタクとして純度高いのかって話じゃなくて、俺はむしろライトな人間で、もっと純度の高くて深いオタク、いわゆるマニア層がもっと沢山居て、そういう人が真なるオタクって認識だったんだけど、まあそういうもんでも無いのかな。

 

んで、レディ・プレイヤーワンの感想に戻るんだけど、正直最後はディズニーみたいなラブロマンスだし、オタクの塊だった主人公が最後に全部を手に入れて締めの言葉も現実は悪くないとか言っちゃって、それ本当にオタク向けなの?って印象だったんだよね。ハリウッド映画みたいな展開でオタク向け?まじで言ってんの?って感じ。最後のベッドシーンに近い画面で終わって、それがオタク向け?ほんまに?って。

 

だからこそ、最後にキスもせず巨大ロボに乗って殴り合っただけで終わらせたパシリムのがよっぽどオタク向けだろって感想なんだけど、色々考えてレディ・プレイヤーワンは違う意味でオタク向けなんじゃないかって考え直した訳。

でも俺が考えたオタク向けって評価と、世間で言われてるオタク向けって評価は絶対に一致してないと思う。世間のレディ・プレイヤーワンのオタク向けって評価は間違いなくゲームキャラやオタク要素が画面に出てるだけの部分に集約されてる。

 

まずストーリーとしては主人公のウェイドはコンプレックスの塊のオタクなんだけど、作品以前から作中ゲームのオアシスってゲーム世界では色々プレイしてた有名プレーヤーだったっぽいよね。ここはオタクにティンとくる部分だよ。現実ではゴミみたいな人間だけど、ゲームの中では輝かしいプレーヤーって部分。仲の良いプレーヤーも居て、オアシス創始者のハリデーに憧れるオタク青年。色恋も知らない童貞。女性アバター相手にマジ恋しちゃうぐらい盲目的で典型的なオタク青年。

 

両親は早くに亡くして以降は叔母の世話になるんだけど、叔母はさほど悪い人じゃ無さそうだったね。叔母の相手は性悪そうでカスみたいな人間だったから、叔母は自分から不幸に突っ込んでくような立ち回りの下手くそな人なんだろうな。

ウェイドは一度も会ったことのハリデーから、生き方や情熱の注ぎ方を学んだんだろう。親がいなかったから、ハリデーを無意識の内に目指すべき人としてずっと追ってたと思う。それは憧れと同時にいつか超えたいという親の位置に居る人間として認識してたはず。一般的な目線で考えてね。

ハリデーから学んだ多くはほぼゲーム内で活用される事になるんだけど、まあそりゃ当たり前でハリデー自身もゲーム以外は一切捨ててきたエゴの塊みたいな人間だった。ただゲーム以外に小節や映画やそういうアート(一人で楽しめるもの)を吸収できたのが、ウェイドにとってもハリデーにとっても想像を広げるコンテンツとして役立ったろうね。

一度も会った事が無くて、言葉も全て一方通行で、見知った時点でハリデーももう現存してなかったけど、歴史や人生を追い続ける内に血肉として学び吸収して作品は始まる訳なんだけど、その作品中に、今まで知らなかったハリデーの歴史を学んでく。その過程でハリデーでも成し得なかった事実を知って、それが現実に対しての回帰だったっていう。

 

ハリデーは現実で恋愛を知らずに死んだんだけど、恋愛になりそうだったのに自らそれを遠ざけちゃうんだよね。両思いだったのに怖くて踏み込めなかった事を生涯後悔してた。この部分が最後の唐突なラブロマンスに繋がるし、物語上絶対に必要な要素になった。それと同様親友との絶縁も後悔してた。

ハリデーは親とは言わないまでもウェイドにとって憧れであり超えたい目標になってた訳で、そのハリデーが生涯後悔してた、仲間との絆と恋愛の要素をクリアしなきゃ、ハリデー超えは無いでしょ。その為に物語でのハリウッドと同じトントン拍子のお膳立てが無きゃいけなかった。

ゲームのエンディングを通過し、それまでの展開でゲーム内でもハリデー並に有名になったウェイドが、ハリデーを超える為に必要だったものが現実への回帰であり、それが最後の「現実は悪くない」に繋がるし、ディズニーみたいなラブロマンスも必要だし、仲間との絆もあってしかるべきだよね。

ぶっちゃけ相手にしてた企業が、よくあるオタクが毛嫌いする大人の利権で動く集団としての概念的な表現だろうけど、そこは語るべきとこは無いかな。あるけど、別に言及しなくてもわかるでしょ。

 

まあそういう現実も悪くないってのがスピルバーグの考えるオタクに向けたメッセージなのかなって考察ね。

世間の言うオタク向けって評価と全然違うでしょ。要素として楽しめるオタクコンテンツと、メッセージとして発信されたオタク向けって感じ。

まああくまで俺が勝手に考察したオタク向けって評価だから、的外れかもね。でもこういう考察するのやっぱ楽しいよね。考察自体は誰か向けたもんでも無いからね。

 

随分前にFGOで考察してた人が結果が外れて逃亡してたけど、別に考察ぐらいもっと自由で良いのにね。当たる予想より、外れてもする考察の方がずっとオタクっぽいでしょ。当たる予想なんか馬券売りや企業に任せとけばいいよ。