メモログ

トィッターで書くには長くオナニ〇が過ぎる事を書きたいと思っていた。

掃除

結構掃除が好きだ。しかし部屋には物が溢れている。雑然としているけど整理したがりというか。しかし部屋にあるものは全て自分にとって必要なもので、不要なものは買わない。買った時も持っている間も必要なものである。

掃除がしやすいかどうか、あるいは手入れしやすいかどうかは物を持つ上で重要なファクターになるものと想像する。たぶんそういう人も居るのではないか。僕はあまり気にしない。

例えばどうしても欲しいと思ったものが、ガラス細工のように繊細で複雑精緻なものだったとして、手入れが面倒そうだなと思って手に入れない事はあるだろうか。いや、あるかもしれないな・・・

掃除する事の面倒さはよく分かる。機械のメンテの面倒さもよく分かる。しかし掃除やメンテは好きである。面倒だが好きなのだ。

掃除する時、楽しいだとか何か考えている訳ではないのだが、終わると楽しかったなと感じる。何が楽しかったのだろうか。いまいち自分でも分かっていない。

機械のメンテは多少分かる。機械の中を覗くとシステム的に配置された物が並び、どう動くか想像するのが楽しい。パソコンみたいなデジタルはかなり想像しづらいかも知れないが、それでも色々想像する事が楽しい。

掃除が好きだと書いたが、これは想像する事が楽しいだな。

部屋の整理をすると、どうすれば効率的な配置にできるかをイメージするのが楽しいのかもしれない。結局想像する事の楽しさが優っている気がする。

苦しみ

タイトルが不穏だが別に生きる事の苦しさを伝えたい訳ではない。

フロムゲーというものがある。ダークソウルとかセキロとかブラッドボーンとかああいうの。いわゆる死にげー。一度クリアした人間は同じ苦しみを味わってもらいたいと、未クリアの人間に勧めては苦しんでいる様を見て恍惚と眺める。人の不幸は蜜の味というやつ。

かく言う自分も人にソフトを投げつけ苦しんでいる様を見て楽しんでいる。愉快この上なし。

この自分と同じ感情を共有したいという感覚、オタクならば大体の人間が持っているかもしれない。ライブ感とでも言おうか。ツイッターニコニコ動画のコメントなんかもそうかもしれない。自分以外の人間も同じ感情を持ち共感している様子を認知する事で、一層連帯感が増し感情が増幅される。これと同質のものかはさておき、フロムゲーの苦しみを味わってほしいという感情は後を絶たない。

どちらかと言えば。古代コロセウムでグラディエーターの戦いを眺めていた観客達に近いかもしれない。自分に一切悪影響が及ばないところで人が苦しんでいるところが見られるのは楽しくて仕方がない。

ただ観客達と違うのは、一度苦しみを経験した人間だからこそ、人が苦しんでいるところが一層楽しく感じるという事である。行く先にどんな苦しみがあるか知っているのが要因では無いか。

つまり先の展開を知っているから、どういう反応をするかが容易に想像でき、その想像通りの反応が見られる事が楽しいのだと思う。

 

影響

なんか前に書いたような気がしないでも無い。影響を与える事が嫌いで、可能であれば誰にも何も影響を与えるような事をせず過ごしたいと思っている。

誰とも接する事無く生活したいという事なんだけど、今の社会では難しく、何より自分自身経済的な面で不可能だと思う。宝くじで当選したらチャンスはあるかもしれないが、買う気がないので確率は0。

影響を与える事は嫌いだが、例えば誰かが誰かの影響を受けて変化していく様を見るのは好きである。

もう一つの例えだが、カプ厨なので誰かが誰かとくっつき幸せそうにしている所を見るのが好きでもある。別にその空間に居たくはない。壁や天井になり、その様子を眺めていたいだけなのだ。

昨日トップをねらえ2!を観た。これも影響を与え、与えられる関係が強い作品だった。共依存のような深く繋がり互いに堕ちていくようなものは作品として見る分にはいいかもしれないが、やはり依存を乗り越え強くなり健全に生きていく方が好ましい。

トップ2はそういう作品でもある。天才性を持つ優等生の主人公が、一見落ちこぼれのもう一人の主人公に真っ直ぐさ、献身さに心を許し、知らず知らずにうちに影響を受け、そして失う。それでも意志を継ぎ、前を向き進む。

最後のシーンまでその関係性が素晴らしく、またラストの3分はトップ1を観た人間にはあまりにも大きく感情を揺さぶられた。

近年観たきたアニメでは本当に良かった。

ただのアニメ語り。

集中

低血圧のせいなのかとにかく朝が苦手である。朝が苦手というか、起きてから脳が覚醒するまでに時間が掛かる。夜勤やらで起床時間がはちゃめちゃな生活だったので、昼夜という時間的感覚が薄れた。

脳が起きるタイミングが、何か特定の行為がトリガーになる事が無く、一日ぼんやりしている事もあるし、明快な目覚めの日もある。自分の身体なのによく分かっていない。

起きてすぐコーヒーを淹れて飲み、軽くネットを見てソシャゲしてから絵を描く、ゲームするといった生活。

ただ、仕事を辞めてからかなり寝つきが良くなったし起きる苦痛も無い。これは間違いない。

自覚は無かったが、若干欝だったのだと思う。かなりストレスを感じていたのだろう。

何に対してストレスだったのだろう。睡眠時間では無いが、日々寝つきが悪く起きるのも苦痛だった日が多々ある。ほとんど眠れない日もあった。仕事がストレスがあったのか?と考えれば、むしろストレスは無かった。しかしあまりに抑揚の無い生活だったのは間違いない。これが良くなかったのかもしれない。

また一日12時間勤務だったので、仕事が終わって帰るとその日はもう何かする時間が殆ど無い。寝る準備、翌日の準備をして明日に備える程度。やりたい事が出来ない。する時間が無い。あっても仕事の疲労で、やりたい事が思うように進められない。

それもストレスだったのかもしれない。

ストレスに対して、あまりに鈍くなり、また負荷が掛からない生活だったせいでトルクが掛かる事が無く、上滑りするような精神状態だった。そういう事を想像している。

こうした、自分の思うように身体や精神(感情)を動かす事が出来ない。それによってぼんやりする時間が増え、物事に集中できず、惰性で生活するだけになっていた。

年内は可能な限り思った事をして、何か自分なりに楽しく過ごしたい。

発想と出力

ほぼ一年放置してた。

最近仕事を辞めてストレスフリーな生活になったおかげで正に自由に生きている。しかし、自由に外に出られないし言うほど自由か?と言われると怪しい。

そもそも社会で生きていく上で案外自由ではないのだなとも思う。仕事をしている間は自由と不自由を行き来してたからこそ自由になりたいと感じただけな気がする。

読み返していないけど、何度も書いてる事で考えている事が上手く言語化できない事が多々ある。ぼんやりと頭の中に浮かんでいるイメージを言葉にできない状態。

思いついてない訳では無いのだけども、どうも言葉にするのに時間がかかったり間違った言葉選びになったりする。単語に触れていないせいだろうか。

文字自体を読んでいないせいでは無い気がする。あまり褒められたツールでは無いがTwitterだったり、ネットで文字自体は読んでいるけども、自覚できるぐらいアウトプットの能力が衰えている。

20代の頃は常に何かを吸収し学んでは試しての繰り返しだったけれども、近年そうしたチャレンジから遠のいて久しいな。たぶん新しい事を行う、そして未知に対しての興味が薄れたせいかもしれない。

こうして書くと飛躍しつつもある程度考えが具体的な形になる。特に誰かに読ませたいとも考えていないし、あとで自分が読み返すかもしれないという事でブログ化した訳だけども、今まで時間が無くて放置していた。どれぐらい続くか分からないが、今は時間がある。

なるべく続けたい。

心理と精神のデフォルト状態

 これは多動気質、微弱な快楽を受ける事でデフォルト状態になるという事でまとめられているんだけど、思えばこの微弱な快楽を受ける事でデフォルト状態にセッティングされるという、所謂心理、精神状態のデフォルトというのは人によって違うなと感じている。

 

自分の機嫌が取れない人という、要するに機嫌や感情をコントロールできず周りに当たり散らす人も、このプラスの心理、精神状態のデフォルトからマイナス方面に振れて受けた不快感を解消する為の、詰まるところ自己防衛行動なのだろうな。

普段から微弱な快楽、例えば優遇対応を受け続けている事のプラスに振れた状態がデフォルトである。

例えば誰にでも対等に接する人が居たとして、その人は普段通り接した筈なのだが、その優遇状態によるプラスがデフォルトの人からするとプラスからゼロへの感情なので、マイナスなのである。

マイナスを受けた人は不快感から攻撃されたと感じる。だから攻撃対象にシフトする可能性がある。感情のコントロールが出来れば、ここで自分自身で心理、精神状態をエフォルトに持っていけるのだが、プラスの状態を周りから受け続けた人は、周りから受動的に受ける事でしか感情を動かせない。やってもらって当たり前がデフォルトになっている。

感情が(その人にとって)マイナスになった事と、その解消に自分の感情を自分でコントロールできないイライラが態度になり、その為に当たり散らしてしまうのだなと分析できる。もちろん全てがそうした状態であるとは断定できないが。

 

この微弱な快楽による心理、精神状態のデフォルト設定というのはまあまあいたるところで見受けられる現象だなあと思う。

 

 

個性

随分前に書いたような気がするが正直もう覚えていない。なんとなく新しく言語化してみようと思う。

大多数の人は自分が他人にどう思われているかを気にする。これは言い換えると、『自分が考えている自分という人間(個性、キャラクター)』と『他人から見た自分という人間』とのギャップを気にしている。

このギャップは、自分という人間を明確に定義している人間(思い込んでいる人間)は気にならず、自分という人間が虚ろであり、どういう人間が好まれるのか?を模索している人ほど気にしている。

自分という人間を定義する事は、普段から自分という人間の行動原理を自分なりに説明できるかどうかを行っていると、自ずと見えてくる部分でもある。他人にどう思われるか、好まれるようにを前提にしていると、自分の行動原理が縮小し他人からの視線に占領される。個性とは見せる為のものでは無い。自分なりに行動した結果、それらの蓄積によって見えてくる輪郭のようなものだ。

 

ギャップを埋める為にすべき事は、自分が自分を理解する事だろう。自分という人間性の輪郭を掴むことだと思う。

個性とは何もせず、内から自然とにじみ出るものとでも言いたげな雰囲気を感じる事がある。そんな都合のいいものは無い。人間は成りたいと思ったものにしか成れない。逆に言えば、成りたいものが無ければ何者にも成れない。

理想があって、それに邁進する事で初めて人間性を獲得する。かなり誇張しているがそういう道筋があって、ようやく自分という人間性の輪郭を掴む事ができる。

 

この輪郭を知る事無く、知ろうとする事も努力もせずに居るとその輪郭はぼやけたままで、自分という人間を定義する事ができない。

どんな人間になりたいのかを決め、そしてその人間性を自分なりに説明できるようになり、そこで現時点の自分とその理想とのギャップを埋める行動を起こしていれば、自分という個性が身についてくるのでは無いだろうか。

 

個性が無い人は、他人からの評価を気にする。そして他人から「こういう人間だよね」と言われると、自分という個性を獲得した錯覚を起こし、それを自分という人間と定義する。そして自分という人間をわかって貰えたことに嬉しくなる。

 

逆に自分という人間を強烈に定義している人間は、他人にどう思われようが気にならない。逆説的に、他人の事を気にしない為に、他人の為に自分を変えられない。一般的には強い人間のように思われているがガラスのようなもので、傷は付きづらいが、破壊されるのは一瞬である。