感情は正しい訳では無い
“「気持ち悪い」は「叩いて良い」わけではない。それはあなたが許容出来ていないだけで、その世界は確かに存在している属性の一つに過ぎない。”
— Najiko (@Najiko10) 2025年11月19日
↑これオブザイヤー最高金賞受賞作品 https://t.co/G6lpKu6fnU
至言であり大人は常に自覚すべき感覚であるように思う。
数年前からSNSで感情、とりわけ『怒り』を発信するのはどうなんだ?という思いがあり(そもそもSNSの利用も控えている状態だが)、周りの人間がSNSで日々感情を吐露するのを静観していた。
上記の『気持ち悪い』は『叩いて良い』わけではない。という感覚の内容は今に始まった事では無く、ずっと以前からおそらく在り続けた感覚で、それがたまたま事態や事象が重なって表面化され、至言に感じるような機会だったんだろう。
感情は人間たらしめる部分で大切だとは思うが、主観性が強くそれを主軸にすると正しさからは離れてしまうし盲目的になる。
もういい歳した人間なので、感情を外部にアウトプットする事のリスクの方が怖く感じるようになった。
逆に若く未成熟な人間の青臭い感情を吐き出す行為は、その時期にしか許されない特権のようにも思う。
そうしたいわゆる若い時期を経て大人になり、感情をコントロールする術を身に着けていく事で、自身のネガティブな感情と向き合う能力が養われていくものと思う。
デロトイトビカムヒューマン
今更のゲームではあるんだけど、感じてた事をさらっと言語化していこうと思う。
アンドロイドが人間になる過程が描かれ、それによって社会が変わり人の在り方や見方も変わるこのゲーム。
まずアンドロイドが人間になるとは何を以て人間と定義するかというテーマは、もう遥か昔から描かれていて、基本的に感情を持つ事によって人間足らしめているのだけども、それ以外に自己犠牲というものもある。
自己犠牲とはコミュニケーションを持てる生物が成せる行為の一つで、日本では神風特攻隊や戦争では殿といった命を懸けて成すものもあれば、日常では気遣いや配慮による自分の時間やリソースを相手の為に使うものまである。
この自己犠牲はアンドロイドにはできない。もう少し厳密に言えば、常に優先されたプログラムに従って行動するアンドロイドには、都度判断を迫られ、成功確率の低い賭けに自身の命を懸ける行為や、そもそも自分の命を天秤に掛けるといった行動ができない。
自分や人間の命の重みを知っているからこそ、命を天秤に掛けるという行為はアンドロイドにはできないのだと思う。
だからこそ自己犠牲を行うアンドロイドは人間に近い存在になったのだというのが通例なのだが、最近は特にこのデトロイトというゲームを見ていてもう少し別の見方があるのではと思い始めている。
このゲームにおいて自己犠牲は所謂バッドエンドルートが多い。マーカスは自己犠牲によって焼身自殺するが、結果としては革命は失敗に終わり、助けたかったアンドロイド達は皆殺しにされる。
カーラは自己犠牲によって家族だけでもカナダへ送ろうとするが、そのまま射殺される。
このゲームにおいてアンドロイドによる自己犠牲は、人間が成せるはずだった自己犠牲が出来た事で、人間だったと証明できたが、結果的にバッドエンドに近いルートになる。
ゲームを通して、アンドロイドが人間になるには何をすべきだったのか?
このゲームにおいては他者を信じる事だったのではないかと感じている。
息子として接してくれたカールからは、芸術や日々のコミュニケーションを通して他者を愛する事を教えてもらったマーカス。
暴力を振るわれる目の前のアリスを助ける為に、母性に目覚め困難に立ち向かうカーラ。
アンドロイドとして扱われつつも、ハンクの人間味(かなり酷い部類の人間だが、人間味としては濃すぎる)に触れ友になり、人としての生き方や選び方を学んでいったコナー。
いずれも最後まで他者を信じる事で、グッドエンドルートに到達できる内容になっている。
今の時代、他者を信じる事が難しいからこそ、信じる事で人間になれたアンドロイド達のゲームだったなという感想。
プロ
最近というか半年前ぐらいから本格的にイラストレーターとして活動しつつお金をもらっている。
当然だが普通にサラリーマンしていた頃に比べて大変だし貰える額も少ないしで、楽に生活できる環境ではない。その道を選んでいるのは自分なので、とにかく進むしかない。
一昔前の自分だと、絵を描くのは自分の楽しみ、趣味であってお金をもらう、仕事にするとは思いつかなかったし、実行するとは思わなかった。
プロイラストレーターは何かとは考えなかったし、そもそも人の為に何かを描く、人が何を求めているのかを考えるという事すら考えなかった。
お金をもらう、それで生活するという事を考えてから、どうやってお金を貰える絵を描くかを考えるようになった。
現状もまだ考えている部分だし、正解だとは思わないが、結局のところ人からお金を貰うという事は、その人が満足してくれるものを提供する事、そこに誠心誠意尽くす事意外に無いように思える。
左団扇で片手間で描いた絵を誰かが買ってくれる環境なら別かもしれない。
とにかく今の自分の立場で言えば、作家としてのブランド、イラストに価値が無い。
価値が無いというと語弊があるが、少なくとも一流のイラストレーターに比べたら、全てにおいて劣っている。
だとするならば、そこにどうお金を貰う価値を自分に見つけて、それをクライアントが満足してくれるように働きかけるかを考えるしかない。
今現在はなんとか生活できるぐらいの状態だが、これを次にどう繋げるかを考え続けないといけない。イラストという世界以外にも目を向けて、クリエイターとして生きていくには何をすべきかを模索しなくてはならない。
教育
教育という言葉に置き換えると教える側だけの立場を想像してしまうような年齢になってしまったけど、だからこそ難しさに悩む。
教わる側だけの立場だった時代は想像すらしなかった事だが、教える人間にも技量があり、そしてその技量を備えている人は中々世の中には居ないのだなと気が付いた。
厳しい指導が無くなり、教育されてきたZ世代のタフさが無くなったからと言って、単に厳しく指導できる人が良い教育者である訳では無い。
件の文中でも「自分で自分を厳しく律することができる人」「厳しいフィードバックに耐えられるタフネスがありそうな人」とあるが、俺は良いけどお前はダメを言語化できる人や、俺もお前もダメを正しく伝えられる人が教育者なのだと思う。
俺は良いけどお前はダメ、という抽象的な文言ではあまりに投げっぱなしだから、ここを言語化すると、例えば成人か否かで決められたルールを正しく理解できるように子供に伝えられるかどうかだ。
成人は二十歳(今は18歳か)以上の年齢を超えた人の事で、それ未満の年齢の人はダメと法律で決まっているから、と教えるのが教育と思っているならば、もう教育はやめた方が良いかも。
子どもが知りたいのはルールでは無く、なぜ成人はOKで未満はNGなのかだ。
そしてその理屈は一般的な言葉で伝えてもたぶん理解できない。その聞いてきた子供が理解できる想像力の範疇を超えない内容で伝えなくてはいけないだろう。
もう分かるだろうが、聞いてきた子供次第では、教える内容を変えなくてはならない。
教育とは、正しい知識を言語化し、豊富な語彙で以て相手のレベルに合わせて伝えられるような例え話を想像できる事ではないかと思う。
要は相手によってレベル上げたり下げたりする事だ。
正しく伝える
似たようなことを以前書いた気がする。正しい意見は常に正しい側であり、ある意味では正解の立場であるが、伝える事が正しいかは別の問題になるし、また伝え方も同様に問題となる場合がある。
例えば教える側の意見とは基本的には正しい場合が多い。教わる側は知識が乏しく知らない事、また知っている知識の応用が出来ない事もあるから、やはり教える側の方の意見というのは正しい。
しかし、知識は正しくとも伝えるか否か、また伝え方も教える側が全て正しいとは限らない。伝えずに見守る場合が結果的に正しい場合もあるし、伝え方も間違えばかえって誤った方向に進ませてしまう場合もある。
教える側というのはある程度はこういった教わる側の状態を把握する必要があるように思う。不確定多数はあまりに多い為に把握するのは難しいが、例えば一対一のような環境だった場合はさほど難しくは無いだろう。逆にそういった発信側が受け手をよく知らずに教えるのは危険である。
メンタルケアを行い万全な対応をするべきという話ではない。教える側は教わる側ときちんと一対一で対話をし、どうしたら相手に最大限情報を伝えられるか考えるべきでは?という話。
お互いにそうした礼節、知識があれば、たぶん難しくはない。
日本映画
正直洋画ばかりしか観ないのだが、最近というかここ5年程は邦画も少し観るようになった。主にヤクザものとかそういうのばかりだが。たまにホラーも観る。
恋愛映画は洋画、邦画問わず全然見ないが洋画はそこそこに色々観る。邦画はアクションもミステリーも大体しょぼく見えてしまって、食わず嫌いしつつある。
ただヤクザものというか、理不尽な暴力性が描かれるものは非常に見応えがあるように感じる。何故だろうか?
例えば理不尽さというものは耐え難い。僕は理不尽に出くわすと物凄い怒りが沸き起こってしまう。しかし人は理不尽な暴力に対して無自覚に行う事がある。
理不尽な暴力とは意外と気が付かない。物理的な暴力というものは目に見えて分かりやすい。しかし言葉の暴力は分からない。当人にその気が無ければ、暴力だとすら考えない。
相手の意見、信念を否定するのは暴力か?違うと思うが、絶対とは言えない。時と場合によっては相手を屈服させる手段に成り得る。
屈服させる事を心地良いと感じる人は多いだろうか?どうだろう。
相手の主張を論破した時、多少なりとも「してやったり」感は無いだろうか。相手の意見に反論し、間違いだったと指摘した時、少しは心地よさを感じたりはしないだろうか。これは理不尽な暴力とは違うか。
対等な相手だった場合は理不尽さからは遠い。しかし一旦その関係が崩れ、相手を屈服させた場合、それからは理不尽な支配を受ける精神的関係性になりうる。
一度そうした格付けが行われると、その関係はおそらく縁が切れても続くだろう。
その関係の中に理不尽な暴力が行われないと言い切れるだろうか。
続覚え書きと映画
lol覚え書き
・序盤のドラゴンタイミングはBOTレーン有利、キル獲得、ヘルスに余力がある
・レベル6辺りでJGガンク成功しBOTレーンでキル獲得時がねらい目
・キル失敗でも相手のヘルスを減らし、ドラゴンファイトに参加できない状態などもねらい目
・相手JGは常に確認、スティールは体を入れて妨害やワードで視界確保
・レベル1でフック当てた場合、当ててAAですぐ下がる
最近毎日映画を見ているけどそこそこ面白い作品ばかりだったが、特捜部Qはかなり面白かった。
シリーズとして制作もされていて見応えもある。
ミステリーとしてよく言われるフーダニット、ホワイダニット、ハウダニットという要素があるが、このシリーズは犯人や手法、トリックよりもホワイダニット重視の作品で、物語の中でそれが丁寧に描かれる。
また被害者、犯人の心情を密に描かれているおかげで、緊張感があり全編通して飽きが来ない。
主人公のカールは不器用、不愛想、不格好で無礼。他人には常に仏頂面で応対し、捜査以外は社会不適合者丸出しのスマートさのかけらも無いのだが、観ていると不思議と魅力がある。同じタイプだとピーター・ダイヤモンドが近いのかもしれない。
相棒のアサドは逆に好青年そのものといった具合で、カールが人生で忘れてきた気遣いを満遍なく見せ、安心させてくれる。大体カールがいつも無茶して、アサドがしりぬぐいをする羽目になる。
ただしアサドにも少ない欠点があり、淹れるコーヒーが究極にマズイらしく、そのクソマズコーヒーをしかも勧めてくるという厄介さもある。
不穏で常に緊張感があり、しかし見ている内に引き込まれる魅力の作品、特捜部Qは今キジ殺しまで視聴済。
続く作品も楽しみ。