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トィッターで書くには長くオナニ〇が過ぎる事を書きたいと思っていた。

教育

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教育という言葉に置き換えると教える側だけの立場を想像してしまうような年齢になってしまったけど、だからこそ難しさに悩む。

教わる側だけの立場だった時代は想像すらしなかった事だが、教える人間にも技量があり、そしてその技量を備えている人は中々世の中には居ないのだなと気が付いた。

 

厳しい指導が無くなり、教育されてきたZ世代のタフさが無くなったからと言って、単に厳しく指導できる人が良い教育者である訳では無い。

件の文中でも「自分で自分を厳しく律することができる人」「厳しいフィードバックに耐えられるタフネスがありそうな人」とあるが、俺は良いけどお前はダメを言語化できる人や、俺もお前もダメを正しく伝えられる人が教育者なのだと思う。

 

俺は良いけどお前はダメ、という抽象的な文言ではあまりに投げっぱなしだから、ここを言語化すると、例えば成人か否かで決められたルールを正しく理解できるように子供に伝えられるかどうかだ。

成人は二十歳(今は18歳か)以上の年齢を超えた人の事で、それ未満の年齢の人はダメと法律で決まっているから、と教えるのが教育と思っているならば、もう教育はやめた方が良いかも。

 

子どもが知りたいのはルールでは無く、なぜ成人はOKで未満はNGなのかだ。

そしてその理屈は一般的な言葉で伝えてもたぶん理解できない。その聞いてきた子供が理解できる想像力の範疇を超えない内容で伝えなくてはいけないだろう。

もう分かるだろうが、聞いてきた子供次第では、教える内容を変えなくてはならない。

 

教育とは、正しい知識を言語化し、豊富な語彙で以て相手のレベルに合わせて伝えられるような例え話を想像できる事ではないかと思う。

要は相手によってレベル上げたり下げたりする事だ。