メモログ

トィッターで書くには長くオナニ〇が過ぎる事を書きたいと思っていた。

思想

思想家って実は知らなくて、最近は思想について、民俗学辺りの本読みたいなって感じ。

 

タイトルなんだけど、最近”物事を『起因』『要素』『過程』『結果』に分解した時、そこから得られた結果、プロセスから、組み合わせによって新たな展望や知識を更に得られないか?”ってのを考えてるんだけど、その思考の過程でこれどうなんだ?って感じた部分があって、それが思想なんだよね。

 

自然現象的に発生した物事は起因、過程、結果に分解できるんだけど、要素を抽出した場合、観測者という新しい要素ができるわけ。

観測者は起因と要素を考え、そこから過程を組み替える事によって全く新しい結果を想定したり導いたりという観測者から目の前の物事にアプローチする立場になるんだけど、その新しいプロセスを考えた際に、この起因という根源、起源にその観測者の思想が少なからず介入するのでは?って思った次第。

 

思想って言葉を使ってるけど、実際それが思想という単語に含有された意思なのかもいまいち分かってなくて、例えば個人の全てを排して純粋に物事を4つの要素に分解して、そこから新しい結果を得る計算を行うとした場合、起因となる結果や過程に対してのイメージやビジョンは無くなると思うんだよね。

 

結果ありきで要素を過程を組み合わせるって話じゃなく、例えば

1 + 1 = 2

の四則演算の要素は”1” ”+” ”=” ”2” になるんだけど、過程が”1 + 1” で結果が”2”なんだよね。

ここから得られた知見は、”1” と ”1” を”+”という要素で組み合わせると”2”という”=”って結果が分かる、

そこで要素を新しく組み合わせるとして”1”と”2”を入れ替えた場合は、どういう結果が得られるのか?

”1”と”2”という要素から、それ以外の要素があるのでは?っていう想像の拡大もできるよね。”+”という過程を結ぶものがあれば、それ以外にもあるかもしれない。

 

こういう風に物事を分解した結果得られたものを更に組み替えたり、想像を拡大する場合にも”起因”は絶対的にあって、そこがスタートになると思うんだけど、この数字の足し算で言えばその起因になったものってなんだろう?っていう。

なんの意思があって数字を作ろうと思ったのか、どういう意図があって四則演算を作ったのかっていう。

まあこの数字に関しては調べれば分かる事だと思うんだけど、その起因に影響したであろう個人、全体の思想めいたものが介入しているとして、俺はその思想をどこまで理解できてるのかなって考えてるんだよね。

 

そういう思想についてのあれやこれ。