メモログ

トィッターで書くには長くオナニ〇が過ぎる事を書きたいと思っていた。

知り合わなければ良い人とは知り得ない

毎日あちーなって思って仕事の為に外出るんだけど、いい加減外出ずに仕事したいし、コンテンツを生み出す為に環境が必要で無いなら職場を作る意味あるのかね?具体的に言えば製造業とかの工場、病院その辺以外は意味あるぅ?

 

2ch(現5chだっけ?)は俺がネット使い始めた時期から一回も見てないし使ったことも無いんだけど、あそこは底辺のネットイキリ人間達の傷の舐め合いやら批判やらしたい集まり場所って認識なんだけど、まあたぶん極端過ぎるなと思ってる。実際覗いたり使ったりしたら認識変わるんだけろうけど、たぶん使う事は現状は無いね。できれば関わりたくはない。

使いたく無い理由はまあ単に俺が嫌だなって感じる場所だから、ただそれだけの理由なんだけどね。

なんか生理的に受け付けない場所とか人とかいるでしょ。歯医者や病院に嫌悪感あって長居したくないって感じのあれ。俺は歯医者も病院もそんなに嫌いじゃない。まああまり常用するような場所じゃないが。

 

例えばその5chに入り浸る人のタイプって上記の俺の極端な認識で、でも使ってる人からしたら「そんなの一部の人だけだよ」って反論あるかもしれない。

仮に本当に一部の人がアレなだけで全体として見た場合、やっぱりそこに行きたくねーなって感想しか出てこない。社会で生活してたらガー不みたいな出来事でストレス感じるのに、わざわざストレス感じる場所をまた増やしたくないよねっていう。

 

もしかしたら、実は本当に利用者って善良な人達が多いかもしれない。俺の知り合いにも利用者いるらしいし、その人はそんなやべーーキチガイでは無い。かなりまともだ。でもそれは知り合いだから分かる事で、知り合わなければ良い人とは知り得ないってのはそういう事だ。モニターの向こうに居る人がどんな人なのか、知り合わなければ分からない。

 

もしかしたらネットで毎日有名人の誰かを批判してぶっ叩いてマウント取ってる人が、その人の周りではめちゃくちゃ良い奴で通ってるかもしれない。

過去はやばかったが今では魅力的できさくで思いやりがあると言われていて、作品を大成功に導いたジェームズ・ガンを解雇したディズニ〇の上層部の誰かも、その周りではめちゃくちゃ魅力的できさくで思いやりがあって良い奴って言われてるかもしれない。

そのガンの十年近く前の過去のツイートを引っ張ってきて、デ〇ズニーに解雇を迫った保守派の人達も、その人の周りでは良い奴って言われてるかもしれない。知り合わなければ良い人とは知り得ない。

でも知り合いくない人種ってのはやっぱいるし、人類皆平等、皆兄弟とかそういう平等愛は持ってないから、俺は付き合いたい人とだけ付き合っていく事にするよ。

思想

思想家って実は知らなくて、最近は思想について、民俗学辺りの本読みたいなって感じ。

 

タイトルなんだけど、最近”物事を『起因』『要素』『過程』『結果』に分解した時、そこから得られた結果、プロセスから、組み合わせによって新たな展望や知識を更に得られないか?”ってのを考えてるんだけど、その思考の過程でこれどうなんだ?って感じた部分があって、それが思想なんだよね。

 

自然現象的に発生した物事は起因、過程、結果に分解できるんだけど、要素を抽出した場合、観測者という新しい要素ができるわけ。

観測者は起因と要素を考え、そこから過程を組み替える事によって全く新しい結果を想定したり導いたりという観測者から目の前の物事にアプローチする立場になるんだけど、その新しいプロセスを考えた際に、この起因という根源、起源にその観測者の思想が少なからず介入するのでは?って思った次第。

 

思想って言葉を使ってるけど、実際それが思想という単語に含有された意思なのかもいまいち分かってなくて、例えば個人の全てを排して純粋に物事を4つの要素に分解して、そこから新しい結果を得る計算を行うとした場合、起因となる結果や過程に対してのイメージやビジョンは無くなると思うんだよね。

 

結果ありきで要素を過程を組み合わせるって話じゃなく、例えば

1 + 1 = 2

の四則演算の要素は”1” ”+” ”=” ”2” になるんだけど、過程が”1 + 1” で結果が”2”なんだよね。

ここから得られた知見は、”1” と ”1” を”+”という要素で組み合わせると”2”という”=”って結果が分かる、

そこで要素を新しく組み合わせるとして”1”と”2”を入れ替えた場合は、どういう結果が得られるのか?

”1”と”2”という要素から、それ以外の要素があるのでは?っていう想像の拡大もできるよね。”+”という過程を結ぶものがあれば、それ以外にもあるかもしれない。

 

こういう風に物事を分解した結果得られたものを更に組み替えたり、想像を拡大する場合にも”起因”は絶対的にあって、そこがスタートになると思うんだけど、この数字の足し算で言えばその起因になったものってなんだろう?っていう。

なんの意思があって数字を作ろうと思ったのか、どういう意図があって四則演算を作ったのかっていう。

まあこの数字に関しては調べれば分かる事だと思うんだけど、その起因に影響したであろう個人、全体の思想めいたものが介入しているとして、俺はその思想をどこまで理解できてるのかなって考えてるんだよね。

 

そういう思想についてのあれやこれ。

見た目に拘らない

ちょっと前っていうか、随分前から話題になってる人なんだけど、まあ個人的に実は話題の人はあまり好きでなくて。若者をよく理解してる好々爺みたいな位置づけの人ね。

名言製造マシーンかってぐらい良い事言ってる内容のツイートがしょっちゅう流れてきてて、最初はまあ関心してたんだけど、後々正直うぜえなっていう感想しか出てこない。

俺は君たちの事分かってるんだよ、っていう姿勢からのマウントツイートとか結構してるでしょ。知ってる範囲で二回ぐらい同じ内容のツイートで炎上してて、その度に反省してます、成長できたーみたいな謝罪ツイートしてるっていう。

でも同じ事してるんだから成長してないんだよね。要はそういうポーズしておいて好感度下がらないようにしとくかっていう保身にしか感じられなくて。

こういう詐欺の件に関してはちょっと調べたら同じ手口で一回裁判に負けてるんだよね。二回目のこの件に関しては真偽は分からんが。

 

基本的に俺は老人とかは信用してなくて、ていうのも知識や経験とか間違いなく上だんろうけど、凝り固まった精神性持ってる人が多くて、大体マウントしてくるんだよね。

もう知らない事は無いから俺が全部教えてやるよっていう横柄な人間や、老い先短い自分は得るものが無いみたいな。そういう捨て鉢で成長する気の無い人がめちゃくちゃ多いんだよね。

良い事言ってても、大概そういうのは自尊心から来るアドバイスで、目の前の人に大しての親身なアドバイスってのは滅多に無い。まあこれは大体の人間にも言えるんだけどね。俺も含めて。

 

別にこの人の事は見抜いてたぜ、俺ってすげーみたいな話じゃなくて、話題の人は世間的にも社会的にも大成したであろう人なんだろうけど、正直さみしいよなあ。

成功の人生から今この歳になって最後に頼ったものが、こういう自分自身が生み出すコンテンツじゃなく、過去の栄光から得たポジション、コミュニケーションからの見た目や保身に拘ってしまってるっていう、そういう落ちぶれ感というか。

 

まあでも結局人間はそういうものなのかもね。俺も20、30年後どうなってるか分からんしね。さっさと死にたい反面、何か最後まで楽しい事を生み出して死にたいなっていう。

絶妙に外す

最後に書いたの2ヵ月前だった。

色々考えてる事たくさんあるんだけど、いまいち自分なりに納得いく結論出せずにまた今度考えるかってなって、それからまた別の事考えてって思考の新陳代謝でどんどん新しい方に変わってしまって、結局書くの忘れてた。

 

結構前に会話のセンスあるみたいな事言われて、自慢でも無いんだけど会話はかなり空気読むように気をつけてるから、そこは素直に嬉しいなって思った話。

子供っていうか、21ぐらいまではアスペで会話もksみたいにつまんない人間だったから、成長したのかなって。まともに物事考えるようになったのが22ぐらいだったから、実質そこまでは子供みたいなもんでしょ。

 

会話のセンス、とは言うけど、具体的にそれなんなん?って感じはある。でも言いたい事は概ね分かるくないないない?

例えばなんにでも正論言う人が居て、それはセンスあるとは言わないし場合によってはつまんないし、何喋っても滑ってる人はセンス無いよね。

 

俺なりにこの辺の会話の面白さって要はユーモアって捉えてて、ユーモアは直球じゃないんだけど原点から少しズレたとこ狙えるようなセンスみたいなニュアンスなんすよ。変化球みたいなもんね。

まあでも変化球ばっかじゃ会話にメリハリ無くなっちゃうから、たまにストレート投げとくみたいなね。会話の変化球とストレートを意識的に投げ分けるようにしておくと良いよねっていう。

 

 

会話を絶妙に外すってやつが具体的にどういうのって言うと、そんな事を具体例出せたら誰でもちょっと面白い事言えるようになる。会話って空気が6割ぐらいで、この空気に適した外し具合が必要になると思ってるんだけど、空気=そこに居る人や話してるテーマで決まる。

だから常にどれぐらいの変化球投げるかっていうのは毎回パームとかシンカーみたいな魔球じみた暴投変化球じゃなく、スライダーとかカーブとかそういうやつも混ぜとくっていう。たまにワイルドピッチとかね。牽制投げてキャッチできないとこに投げてみたり。

 

論点から多少ズレてるんだけど、それほど外してる訳でもなく、ほんとちょっと引っかかってるけどその着地K点ギリ超えてなくない?みたいなとこに狙う感覚。

お祭りの輪投げで、投げた輪が棒の頭に引っかかって下に落ちてないとかそういう感じ。絶妙さね。カイジで言えば鉄骨渡り。まあこれ外してるんだけど。

 

 

 

 

オナニー感想

パシリム観た感想。表示非表示で隠すのが礼儀だろうが、ここは俺の場所なのでそのまま載せよう。

 

前作は新しいものが多くて、尖った作品だった。ロボ、怪獣の巨大な質量がぶつかりあうっていう、まあ言っちゃえばそれだけの作品なんだけど、そこにこぞってオタク共は絶賛した訳だ。俺もその一人。

キャラもロボも怪獣も、サクッと死んで退場という流れが大半なんだけど、一目で記憶に残るようなインパクトあるデザインだし、理屈もエピソードもアメリカンな「よく聞いてくれ。これが答えだ」って銃撃つ挨拶のようなテンポで、非常に良い。

 

続編のパシフィックリム アップライジングはデルトロ監督が居ないとこんなもんなんだなって印象しか残らない作品でものすごく退屈だった。

面白くない訳では無い、って作品や作製者に対してリスペクトあるから濁した言い方するけど、そこを排して作品を評価すると人に勧める作品ではないし、パシリムの続編という事すら無かった事にしたいレベルの出来。観るに堪えない。

 

前作にあった新しい尖りやキャラのデザインも丸くなり、ひたすら無難に無難に作った作品。

キャラのインパクトが無い為にちょっとしたドラマをキャラに語らせるチープな構成。

戦いの中で味方を殺して感情を盛り上げようというストーリー。

ひたすらおもんかった。見て損したレベル。前作が素晴らしかっただけに残念過ぎた。

 

主人公のジョン・ボイエガ、前作から続投のチャーリー・デイ、ゴーマンは良かった。

特にこの二人の仲の良さが夫婦かよってぐらいの距離感で、天才二人故の共感と前作での怪獣との戦いを共に乗り越えてきたっていうのがある故の距離感。ガイズリーの方は色々あって若干引き気味だったが。

正直この二人居なきゃなんも見所無かったね。ロボ、怪獣ですら心動くようなもんがなかった。

 

前作パシフィックリムの尖ったものをひたすら切ってならして丸めて、ハリウッドで受けるようにドラマ挿入して構成して、デルトロのオタクセンスを一般人がなぞらえたような作品。

 

俺は人には絶対勧めない。特に同じオタク的な知り合いには。

主観、客観

めっちゃ暖かい。花粉で死にそうになってるみんなー。僕は特に発症していないので、ここ20年知り合い見てると辛そうだなと思った。

 

主観的な意見が、感情的な意見と思われるようになってるのかな、と思う事がちょいちょいある。逆に客観的な意見、と言えば冷静さとか、ちょっと上手い意見みたいな印象になってるのかなとも感じる。

 

主観とは個人の視点である。客観とは個人の視点から離れて、多角的に物事を見る事である。自分はめちゃざっくりと大体そんな感じで捉えている。

 

しかし、個人はどう頑張っても個人にしかなりえないのだ。いや、俺は客観的な意見を言える、と思っている人、君多重人格?ジョークだよジョーク。

 

個人が客観的な意見を持つ為には、多面的な価値観を持つ事だと思う。

意見とはある価値観から観察して、そこで印象や感想みたいなもので、それが正解かはその物事に対しての経験や知識で近づけることができる。

 

客観的な意見とは、複数の価値観から出た意見をまとめ、物事に対してフラットな目線での意見の事なのかなと思っている。

個人が客観的な意見を持つには、多面的な人間性を獲得する事だろうな、と感じる。

 

要は自分の意見に、反対意見を持てるかどうかという事。

そして客観とは、複数の主観で成り立っている。結局のところ、客観も主観であり、客観性とは、複数の主観を持つ事でそうした経験や知識から出てくる人間性みたいなものではないか。

 

個人はどれだけ成長しても生きても、主観から脱する事はできない。客観性を獲得するには、自分や周囲の意見に疑問を持ち続け、考え続けなくてはいけないのではなかろうか。

 

 

完璧マン

寒いと思ったらそうでもないし、でも若干まだ寒いが家から出なければそうでもないけど、寒いものは寒い。

 

完璧な人間は居ない、と言いながら他人に完璧な人生を求める人が居る。どういう心理だろう。別に当人が完璧な人生だろうが、自分に不利益が無ければ、野垂れ死のうが何しようがなんでも良くない?良くなくない?

 

例えば自爆テロしようとしてる人が居て、それはもちろんダメだし知り合いなら止めるだろうが、実際それで自分になんの関係も無ければテレビのニュースを見て「大変だなあ」ぐらいで終わる人が殆どだと思う。あるいは、「今日の仕事休みにならないかな」ぐらい。否定したいから極論を述べた。

 

他人の人生に完璧を求めるのは、潔癖症の傾向が強い。

自分の見える範囲の汚いものを排除したい。自分の思った通りの綺麗なものに囲まれていたい。

結果論から正論を述べる事で、相手よりも優位な場所に居たい。相手を正してあげたい。自分は正義であるから、悪を裁くのは気持ちが良い。

自分は常に安全な場所でありたい。それでありながら、自分以外の誰かが汚い事をしてくれて、自分は綺麗な場所から動く事無く綺麗なままのものを眺めていたい。

 

完璧な人間は居ない、といいつつも、完璧なシステムを人に求める。しかし、自分のミスは笑って許して欲しいという願望が強いかもしれない。甘えん坊か?自分はまさしく、自分以外の誰かが上手い事やってくれて、美味しい思いをしたい人種だ。

 

動く事無く万事がベルトコンベアみたいに、オートで進んでくれれば完璧な生活を送れる。早くそういう社会になってくれ。

 

話変わって、SF小説でよくある全てが管理されているユートピア系の世界観の中で、何の疑いも持たず与えられた義務をこなして、不自由の一切無い生活。あれに憧れる。

こういう小説の中で、大概主人公は世界に疑問を持ち「これで本当に良いのか?自由とは?」。それで良いんだそれで。変に動かすな。

しかしキーキャラクターが現れて、主人公に世界の真実を伝える。主人公は世界からの脱出を目指し、初めて目標の為に進んでいく物語。まあそんな小説があるか分からんから、思いついたの適当に書いたんだけど。

 

今でも心は14歳のままの男子諸君は、もしかしたら自由とは何かみたいな命題を持っているかもしれない。

自由とは不自由さに包含された、要はルールの中にあるもので、破る事では無い。

ルールから脱却し、不自由さから開放された時点で、自由と不自由の境界は無く、同一視されてしまう。

不自由さがあるから自由を感じる事ができて、自由な生き方を模索できる。有限の中にあるから、選択する権利と後戻りできないリスクを持つ。リスクがあるから、最善、最適を選ぶ為に考える。

 

話戻って、完璧な人生は無いが、完璧であろうとする意思が不自由なルールの中で自由さを選び、その瞬間にしか得られない最善を探す。

他人に完璧を求めるよりは、もっと自分を見た方が良いと思う。自分の人生は自分だけのものだから、他人の人生なんか気にしてる時間も無いし、そんな余裕も無い。