メモログ

トィッターで書くには長くオナニ〇が過ぎる事を書きたいと思っていた。

レディ・プレイヤーワン

冬コミに向けて原稿作業真っ最中なんだけど、ちょっと気分転換がてら文字でアウトプットしとこうかなってね。オリジナルものばっか描いててリソースも枯渇気味だから、映画とかそういうの観たいけどそういう時間も無いし困っちゃうね。

 

結構前に観たレディ・プレイヤーワンって映画の感想でも書いとこうかなってペンタブちょっとかたして今キーボード手前に引っ張ってきたんだけど、まあコーヒー飲みたくなってきた訳でね。ちょっと淹れてこようかな。

コーヒーにしようかと思ったけど、気が変わってカフェオレにしたわ。美味しい。

 

いつも通りネタバレ全開の感想。

レディ・プレイヤーワンなんだけど、やたらと周りで『オタク向け!!』って持て囃されてて、どんなんかなって観に行ったんだよね。正直スピルバーグ作品だし、内容も一切情報シャッタアウトしてたから結構ワクワクしてたんだけど、最初の印象は「映像すげえ!」「どこがオタク向けだ?」だったんだよ。

ビジュアルは言わずもがなで、ここは俺がわざわざ言う必要無いからかっ飛ばすね。オタク向けって言われてた部分が観た印象だと、全然感じなくてお前らどの辺にどういう印象で感じたんか?ってめちゃくちゃ聞きたくなった。

オタク向けのゲームキャラや要素(デロリアンとか金田バイクとかそういうの)があるのは見りゃ分かるんだけど、ぶっちゃけそれだけ?って感じだよね。ただそういうキャラや要素出せば全部オタク向けなのか?っていう。安すぎない?オタク。

 

ゲームクリアへ対する情熱や、外圧的な相手や劣等感のある主人公が立ち上がって、周りの仲間たちと共闘していわゆる神話のゴリアテ討伐みたいな、巨悪(っていう位置づけが勧善懲悪で分かりやすいから当てはめるけど)を打ち倒すってストーリーがオタク向けか?っていう。別にオタクじゃなくても楽しいよなあそれ。パシリム1の方が500億倍オタク向けだったよ。

でもオタクにも受けてんだからまあ世間ではそういうオタク層が居るんだよなあ。ちょっと安っぽい気はしたけど、そういう時代なんだなっていう。

俺がオタクとして純度高いのかって話じゃなくて、俺はむしろライトな人間で、もっと純度の高くて深いオタク、いわゆるマニア層がもっと沢山居て、そういう人が真なるオタクって認識だったんだけど、まあそういうもんでも無いのかな。

 

んで、レディ・プレイヤーワンの感想に戻るんだけど、正直最後はディズニーみたいなラブロマンスだし、オタクの塊だった主人公が最後に全部を手に入れて締めの言葉も現実は悪くないとか言っちゃって、それ本当にオタク向けなの?って印象だったんだよね。ハリウッド映画みたいな展開でオタク向け?まじで言ってんの?って感じ。最後のベッドシーンに近い画面で終わって、それがオタク向け?ほんまに?って。

 

だからこそ、最後にキスもせず巨大ロボに乗って殴り合っただけで終わらせたパシリムのがよっぽどオタク向けだろって感想なんだけど、色々考えてレディ・プレイヤーワンは違う意味でオタク向けなんじゃないかって考え直した訳。

でも俺が考えたオタク向けって評価と、世間で言われてるオタク向けって評価は絶対に一致してないと思う。世間のレディ・プレイヤーワンのオタク向けって評価は間違いなくゲームキャラやオタク要素が画面に出てるだけの部分に集約されてる。

 

まずストーリーとしては主人公のウェイドはコンプレックスの塊のオタクなんだけど、作品以前から作中ゲームのオアシスってゲーム世界では色々プレイしてた有名プレーヤーだったっぽいよね。ここはオタクにティンとくる部分だよ。現実ではゴミみたいな人間だけど、ゲームの中では輝かしいプレーヤーって部分。仲の良いプレーヤーも居て、オアシス創始者のハリデーに憧れるオタク青年。色恋も知らない童貞。女性アバター相手にマジ恋しちゃうぐらい盲目的で典型的なオタク青年。

 

両親は早くに亡くして以降は叔母の世話になるんだけど、叔母はさほど悪い人じゃ無さそうだったね。叔母の相手は性悪そうでカスみたいな人間だったから、叔母は自分から不幸に突っ込んでくような立ち回りの下手くそな人なんだろうな。

ウェイドは一度も会ったことのハリデーから、生き方や情熱の注ぎ方を学んだんだろう。親がいなかったから、ハリデーを無意識の内に目指すべき人としてずっと追ってたと思う。それは憧れと同時にいつか超えたいという親の位置に居る人間として認識してたはず。一般的な目線で考えてね。

ハリデーから学んだ多くはほぼゲーム内で活用される事になるんだけど、まあそりゃ当たり前でハリデー自身もゲーム以外は一切捨ててきたエゴの塊みたいな人間だった。ただゲーム以外に小節や映画やそういうアート(一人で楽しめるもの)を吸収できたのが、ウェイドにとってもハリデーにとっても想像を広げるコンテンツとして役立ったろうね。

一度も会った事が無くて、言葉も全て一方通行で、見知った時点でハリデーももう現存してなかったけど、歴史や人生を追い続ける内に血肉として学び吸収して作品は始まる訳なんだけど、その作品中に、今まで知らなかったハリデーの歴史を学んでく。その過程でハリデーでも成し得なかった事実を知って、それが現実に対しての回帰だったっていう。

 

ハリデーは現実で恋愛を知らずに死んだんだけど、恋愛になりそうだったのに自らそれを遠ざけちゃうんだよね。両思いだったのに怖くて踏み込めなかった事を生涯後悔してた。この部分が最後の唐突なラブロマンスに繋がるし、物語上絶対に必要な要素になった。それと同様親友との絶縁も後悔してた。

ハリデーは親とは言わないまでもウェイドにとって憧れであり超えたい目標になってた訳で、そのハリデーが生涯後悔してた、仲間との絆と恋愛の要素をクリアしなきゃ、ハリデー超えは無いでしょ。その為に物語でのハリウッドと同じトントン拍子のお膳立てが無きゃいけなかった。

ゲームのエンディングを通過し、それまでの展開でゲーム内でもハリデー並に有名になったウェイドが、ハリデーを超える為に必要だったものが現実への回帰であり、それが最後の「現実は悪くない」に繋がるし、ディズニーみたいなラブロマンスも必要だし、仲間との絆もあってしかるべきだよね。

ぶっちゃけ相手にしてた企業が、よくあるオタクが毛嫌いする大人の利権で動く集団としての概念的な表現だろうけど、そこは語るべきとこは無いかな。あるけど、別に言及しなくてもわかるでしょ。

 

まあそういう現実も悪くないってのがスピルバーグの考えるオタクに向けたメッセージなのかなって考察ね。

世間の言うオタク向けって評価と全然違うでしょ。要素として楽しめるオタクコンテンツと、メッセージとして発信されたオタク向けって感じ。

まああくまで俺が勝手に考察したオタク向けって評価だから、的外れかもね。でもこういう考察するのやっぱ楽しいよね。考察自体は誰か向けたもんでも無いからね。

 

随分前にFGOで考察してた人が結果が外れて逃亡してたけど、別に考察ぐらいもっと自由で良いのにね。当たる予想より、外れてもする考察の方がずっとオタクっぽいでしょ。当たる予想なんか馬券売りや企業に任せとけばいいよ。

感情的になる事

なんか気がついたら時間経ってて、何もしてない訳じゃないんだけど何もしてない焦燥感みたいな、そういうよく分からん時間を無駄にして生きてる感覚とか、将来性が先細りしてるように感じてるんだよね。あんま良くないね。本音で言えば全然良くない。

 

感情を人にぶつける事をあんまりしないんだけど、でも周り見てると積極的にやってる人をよく見るし、彼ら彼女らはそういう感情のコントロールってどうやってんのかなっていう疑問が結構あるんだよね。ムカついたら自分をコントロールせずに暴力もガンガンやっちゃうのかな。

 

まともだと思ってた人が実はめちゃくちゃそういう感情のコントロールができない人で、全く議論にならなかった時のなんていうか呆れと疲れしか得られないやつ。もう30年以上生きてるから何回か経験してるけど、やっぱ慣れないっていうか本当に何も得るものが無くて時間の浪費感が凄まじいんだよね。上の時間を無駄にして生きてる”感覚”じゃなく、本当に無駄にしてるからね。とても徒労。

 

10代、20代時はそういう経験も新鮮で「へーそういう人も居るんだ!」みたいにちょっとした楽しみではあったんだけど、もう何度も経験すると得るものが無いし、消費してくものしか無くて本当にびっくりするぐらい無駄。

そういう人との付き合いで得られるものがあるかもしれないけど、正直そういうタイプの人から得られるものって微々たるもので他からも得られる場合が大半なんだよなあ。

 

俺自身がめちゃくちゃ価値ある人間だよは微塵も思わないけど、少なくとも人に感情ぶつけて不快にさせるような人間では無いから、その点ではまあまだ良いんじゃないでしょうか。

 

なんとか対策を講じるべきだと思うんだけど、一度知り合ってから認識できる事象な訳で、そうなると一度経験してから「あーそういうタイプか」って理解するから、どうやっても立ち会わなくちゃならない。対策になってない。困ったもんだね。

 

とはいえ、感情を一切放出しない生き方もそれはそれでどうなんって部分もあるよね。人にぶつけて自分だけが消化してるのがよくねーよなってだけで。ぶつけあう様な間柄で、それが互いに消化できてるならそれはそれで良好関係だとは思うし、例えば感情的になっても頭の方は冷静に議論できる状態なら、一種のブーストとも取れる。

 

一番やっちゃいけないと思ってんのは、この議論とか話し合いの時に指摘したら不貞腐れてもう話し合いを続けようとしなくなる事だなとは思う。子供によくある状態。つい最近あったから思い出したらムカついてきたわ。

 

子供のこの感情が態度に出る現象、考えてみたらどういうプロセスだろう。指摘されて本人は間違いだと気がついてるけど、それを認めたくなくて=認めたら言い負かされたって感覚なのか、自分の意見が通らなくて=思い通りにならなくて不愉快なのか、自分より格下だと思ってる人間に言いくるめられるのが不快なのか。色々ありそうだけど、全部な気もするな。

 

感情は悪い事じゃないし、あって然るべき機能だとは思うが、やっぱコントロールできない人とは関わりたくないね。一切の関わり絶つよりは、遠目に情報を得るぐらいや、そういった話し合いをせずに付き合うのが良いなと思う。

知り合わなければ良い人とは知り得ない

毎日あちーなって思って仕事の為に外出るんだけど、いい加減外出ずに仕事したいし、コンテンツを生み出す為に環境が必要で無いなら職場を作る意味あるのかね?具体的に言えば製造業とかの工場、病院その辺以外は意味あるぅ?

 

2ch(現5chだっけ?)は俺がネット使い始めた時期から一回も見てないし使ったことも無いんだけど、あそこは底辺のネットイキリ人間達の傷の舐め合いやら批判やらしたい集まり場所って認識なんだけど、まあたぶん極端過ぎるなと思ってる。実際覗いたり使ったりしたら認識変わるんだけろうけど、たぶん使う事は現状は無いね。できれば関わりたくはない。

使いたく無い理由はまあ単に俺が嫌だなって感じる場所だから、ただそれだけの理由なんだけどね。

なんか生理的に受け付けない場所とか人とかいるでしょ。歯医者や病院に嫌悪感あって長居したくないって感じのあれ。俺は歯医者も病院もそんなに嫌いじゃない。まああまり常用するような場所じゃないが。

 

例えばその5chに入り浸る人のタイプって上記の俺の極端な認識で、でも使ってる人からしたら「そんなの一部の人だけだよ」って反論あるかもしれない。

仮に本当に一部の人がアレなだけで全体として見た場合、やっぱりそこに行きたくねーなって感想しか出てこない。社会で生活してたらガー不みたいな出来事でストレス感じるのに、わざわざストレス感じる場所をまた増やしたくないよねっていう。

 

もしかしたら、実は本当に利用者って善良な人達が多いかもしれない。俺の知り合いにも利用者いるらしいし、その人はそんなやべーーキチガイでは無い。かなりまともだ。でもそれは知り合いだから分かる事で、知り合わなければ良い人とは知り得ないってのはそういう事だ。モニターの向こうに居る人がどんな人なのか、知り合わなければ分からない。

 

もしかしたらネットで毎日有名人の誰かを批判してぶっ叩いてマウント取ってる人が、その人の周りではめちゃくちゃ良い奴で通ってるかもしれない。

過去はやばかったが今では魅力的できさくで思いやりがあると言われていて、作品を大成功に導いたジェームズ・ガンを解雇したディズニ〇の上層部の誰かも、その周りではめちゃくちゃ魅力的できさくで思いやりがあって良い奴って言われてるかもしれない。

そのガンの十年近く前の過去のツイートを引っ張ってきて、デ〇ズニーに解雇を迫った保守派の人達も、その人の周りでは良い奴って言われてるかもしれない。知り合わなければ良い人とは知り得ない。

でも知り合いくない人種ってのはやっぱいるし、人類皆平等、皆兄弟とかそういう平等愛は持ってないから、俺は付き合いたい人とだけ付き合っていく事にするよ。

思想

思想家って実は知らなくて、最近は思想について、民俗学辺りの本読みたいなって感じ。

 

タイトルなんだけど、最近”物事を『起因』『要素』『過程』『結果』に分解した時、そこから得られた結果、プロセスから、組み合わせによって新たな展望や知識を更に得られないか?”ってのを考えてるんだけど、その思考の過程でこれどうなんだ?って感じた部分があって、それが思想なんだよね。

 

自然現象的に発生した物事は起因、過程、結果に分解できるんだけど、要素を抽出した場合、観測者という新しい要素ができるわけ。

観測者は起因と要素を考え、そこから過程を組み替える事によって全く新しい結果を想定したり導いたりという観測者から目の前の物事にアプローチする立場になるんだけど、その新しいプロセスを考えた際に、この起因という根源、起源にその観測者の思想が少なからず介入するのでは?って思った次第。

 

思想って言葉を使ってるけど、実際それが思想という単語に含有された意思なのかもいまいち分かってなくて、例えば個人の全てを排して純粋に物事を4つの要素に分解して、そこから新しい結果を得る計算を行うとした場合、起因となる結果や過程に対してのイメージやビジョンは無くなると思うんだよね。

 

結果ありきで要素を過程を組み合わせるって話じゃなく、例えば

1 + 1 = 2

の四則演算の要素は”1” ”+” ”=” ”2” になるんだけど、過程が”1 + 1” で結果が”2”なんだよね。

ここから得られた知見は、”1” と ”1” を”+”という要素で組み合わせると”2”という”=”って結果が分かる、

そこで要素を新しく組み合わせるとして”1”と”2”を入れ替えた場合は、どういう結果が得られるのか?

”1”と”2”という要素から、それ以外の要素があるのでは?っていう想像の拡大もできるよね。”+”という過程を結ぶものがあれば、それ以外にもあるかもしれない。

 

こういう風に物事を分解した結果得られたものを更に組み替えたり、想像を拡大する場合にも”起因”は絶対的にあって、そこがスタートになると思うんだけど、この数字の足し算で言えばその起因になったものってなんだろう?っていう。

なんの意思があって数字を作ろうと思ったのか、どういう意図があって四則演算を作ったのかっていう。

まあこの数字に関しては調べれば分かる事だと思うんだけど、その起因に影響したであろう個人、全体の思想めいたものが介入しているとして、俺はその思想をどこまで理解できてるのかなって考えてるんだよね。

 

そういう思想についてのあれやこれ。

見た目に拘らない

ちょっと前っていうか、随分前から話題になってる人なんだけど、まあ個人的に実は話題の人はあまり好きでなくて。若者をよく理解してる好々爺みたいな位置づけの人ね。

名言製造マシーンかってぐらい良い事言ってる内容のツイートがしょっちゅう流れてきてて、最初はまあ関心してたんだけど、後々正直うぜえなっていう感想しか出てこない。

俺は君たちの事分かってるんだよ、っていう姿勢からのマウントツイートとか結構してるでしょ。知ってる範囲で二回ぐらい同じ内容のツイートで炎上してて、その度に反省してます、成長できたーみたいな謝罪ツイートしてるっていう。

でも同じ事してるんだから成長してないんだよね。要はそういうポーズしておいて好感度下がらないようにしとくかっていう保身にしか感じられなくて。

こういう詐欺の件に関してはちょっと調べたら同じ手口で一回裁判に負けてるんだよね。二回目のこの件に関しては真偽は分からんが。

 

基本的に俺は老人とかは信用してなくて、ていうのも知識や経験とか間違いなく上だんろうけど、凝り固まった精神性持ってる人が多くて、大体マウントしてくるんだよね。

もう知らない事は無いから俺が全部教えてやるよっていう横柄な人間や、老い先短い自分は得るものが無いみたいな。そういう捨て鉢で成長する気の無い人がめちゃくちゃ多いんだよね。

良い事言ってても、大概そういうのは自尊心から来るアドバイスで、目の前の人に大しての親身なアドバイスってのは滅多に無い。まあこれは大体の人間にも言えるんだけどね。俺も含めて。

 

別にこの人の事は見抜いてたぜ、俺ってすげーみたいな話じゃなくて、話題の人は世間的にも社会的にも大成したであろう人なんだろうけど、正直さみしいよなあ。

成功の人生から今この歳になって最後に頼ったものが、こういう自分自身が生み出すコンテンツじゃなく、過去の栄光から得たポジション、コミュニケーションからの見た目や保身に拘ってしまってるっていう、そういう落ちぶれ感というか。

 

まあでも結局人間はそういうものなのかもね。俺も20、30年後どうなってるか分からんしね。さっさと死にたい反面、何か最後まで楽しい事を生み出して死にたいなっていう。

絶妙に外す

最後に書いたの2ヵ月前だった。

色々考えてる事たくさんあるんだけど、いまいち自分なりに納得いく結論出せずにまた今度考えるかってなって、それからまた別の事考えてって思考の新陳代謝でどんどん新しい方に変わってしまって、結局書くの忘れてた。

 

結構前に会話のセンスあるみたいな事言われて、自慢でも無いんだけど会話はかなり空気読むように気をつけてるから、そこは素直に嬉しいなって思った話。

子供っていうか、21ぐらいまではアスペで会話もksみたいにつまんない人間だったから、成長したのかなって。まともに物事考えるようになったのが22ぐらいだったから、実質そこまでは子供みたいなもんでしょ。

 

会話のセンス、とは言うけど、具体的にそれなんなん?って感じはある。でも言いたい事は概ね分かるくないないない?

例えばなんにでも正論言う人が居て、それはセンスあるとは言わないし場合によってはつまんないし、何喋っても滑ってる人はセンス無いよね。

 

俺なりにこの辺の会話の面白さって要はユーモアって捉えてて、ユーモアは直球じゃないんだけど原点から少しズレたとこ狙えるようなセンスみたいなニュアンスなんすよ。変化球みたいなもんね。

まあでも変化球ばっかじゃ会話にメリハリ無くなっちゃうから、たまにストレート投げとくみたいなね。会話の変化球とストレートを意識的に投げ分けるようにしておくと良いよねっていう。

 

 

会話を絶妙に外すってやつが具体的にどういうのって言うと、そんな事を具体例出せたら誰でもちょっと面白い事言えるようになる。会話って空気が6割ぐらいで、この空気に適した外し具合が必要になると思ってるんだけど、空気=そこに居る人や話してるテーマで決まる。

だから常にどれぐらいの変化球投げるかっていうのは毎回パームとかシンカーみたいな魔球じみた暴投変化球じゃなく、スライダーとかカーブとかそういうやつも混ぜとくっていう。たまにワイルドピッチとかね。牽制投げてキャッチできないとこに投げてみたり。

 

論点から多少ズレてるんだけど、それほど外してる訳でもなく、ほんとちょっと引っかかってるけどその着地K点ギリ超えてなくない?みたいなとこに狙う感覚。

お祭りの輪投げで、投げた輪が棒の頭に引っかかって下に落ちてないとかそういう感じ。絶妙さね。カイジで言えば鉄骨渡り。まあこれ外してるんだけど。

 

 

 

 

オナニー感想

パシリム観た感想。表示非表示で隠すのが礼儀だろうが、ここは俺の場所なのでそのまま載せよう。

 

前作は新しいものが多くて、尖った作品だった。ロボ、怪獣の巨大な質量がぶつかりあうっていう、まあ言っちゃえばそれだけの作品なんだけど、そこにこぞってオタク共は絶賛した訳だ。俺もその一人。

キャラもロボも怪獣も、サクッと死んで退場という流れが大半なんだけど、一目で記憶に残るようなインパクトあるデザインだし、理屈もエピソードもアメリカンな「よく聞いてくれ。これが答えだ」って銃撃つ挨拶のようなテンポで、非常に良い。

 

続編のパシフィックリム アップライジングはデルトロ監督が居ないとこんなもんなんだなって印象しか残らない作品でものすごく退屈だった。

面白くない訳では無い、って作品や作製者に対してリスペクトあるから濁した言い方するけど、そこを排して作品を評価すると人に勧める作品ではないし、パシリムの続編という事すら無かった事にしたいレベルの出来。観るに堪えない。

 

前作にあった新しい尖りやキャラのデザインも丸くなり、ひたすら無難に無難に作った作品。

キャラのインパクトが無い為にちょっとしたドラマをキャラに語らせるチープな構成。

戦いの中で味方を殺して感情を盛り上げようというストーリー。

ひたすらおもんかった。見て損したレベル。前作が素晴らしかっただけに残念過ぎた。

 

主人公のジョン・ボイエガ、前作から続投のチャーリー・デイ、ゴーマンは良かった。

特にこの二人の仲の良さが夫婦かよってぐらいの距離感で、天才二人故の共感と前作での怪獣との戦いを共に乗り越えてきたっていうのがある故の距離感。ガイズリーの方は色々あって若干引き気味だったが。

正直この二人居なきゃなんも見所無かったね。ロボ、怪獣ですら心動くようなもんがなかった。

 

前作パシフィックリムの尖ったものをひたすら切ってならして丸めて、ハリウッドで受けるようにドラマ挿入して構成して、デルトロのオタクセンスを一般人がなぞらえたような作品。

 

俺は人には絶対勧めない。特に同じオタク的な知り合いには。