メモログ

トィッターで書くには長くオナニ〇が過ぎる事を書きたいと思っていた。

夢中

年齢を重ねていくと夢中になるのが難しくなる気がする。加齢による集中力の低下だったりあるかもしれない。

 

例えば、生きる上で必ず蓄積されるものがあって、それは記憶や経験と呼ぶものだと思う。

これが蓄積されていくと、無意識に先の展開のシュミレートを行うようになる。無意識では無いか。たぶん普通の人なら一度経験したものを完全に忘れて、同じ反応をする事は無い。

この蓄積された記憶や経験が、夢中になる事を阻害しているかもしれない。夢中とは先が分からないから没頭できる状態であり、ある程度シュミレートできるようになると先の展開を想像する。

そうなると、先が分からないからこそ夢中になれたものが、先を想定して別の方向に意識が向く。

子どもの頃に夢中になれた状態は、大人になるにつれて経験する事が難しい状態になる。予想外の経験は貴重なものであり、常に探していきたいものである。

影響

自分の意見を言う事がとても難しいなと常に感じている。たぶん同じ事を過去に書いている。

イメージはもちろん、考えている内容は常に絵で思考している。言葉が添えられる事があまり無くて、だから考えを意見として言葉にする事が難しいなと日頃から感じる。

 

社会で生きる上で、自分のみで生きるのであれば言葉は不要で、しかし社会には自分以外の人間は存在しているし関わりは常にどこかで生まれ、コミュニケーションをしなくてはいけない。

だからこそ、共通のコミュニケーションツールとして言葉は必要であり、それをきちんと活用する事は社会で生きる上で求められる。

 

意見や考えとは自分がどう感じているかである。一般的に見て正誤はあるかもしれないが、その意見自体に善悪というものは無いと思う。だからこそ自分の意見を持ち、それが社会とどうズレているかを測る事は重要だと感じる。

 

近年同調圧力という言葉を聞く。この圧力によって自分の考えを周りに合わせるようになる。

周りを見ると、たしかにそうした現象のようなものを見かける。そして、例えばツイッターでは同じ意見同士で繋がり、より意思を強固に持ち、正義を掲げる事も珍しくない。

これも圧力というものかもしれない、

 

例えば、自分の意見を明確に意識するのであれば、そうしたSNSではなく日記やブログが良いかもしれない。外部の影響を一切受けず、誰にも見せる事無くひたすら自分の考えをアウトプットしていく。

誰かに見せる、意見を求めるという意識があれば、それはその特定の人に向けた内容になるかもしれない。

 

好み

毎回日が空く。時間はあるのに使い方がへたくそ。

先日と言ってももう二か月前だがFF14で暁月編という拡張パッチが入り物語に一区切りが付いた。10年の積み重ねを全て回収するストーリーで非常に感動してもう涙ボロボロだった。最高のゲーム体験ができて感謝。

しかしまあ作品なので好みは分かれる。万人に評価されるのは難しい。この作品も同様である。僕にとって最高でも、誰かにとって最低の出来栄えだったりする。

 

好き嫌いがどういった傾向によって決まるのかは中々理解できない。自分の好きと嫌いを言語化して人に伝える事は難しい。何故好きか嫌いかの理由はあれど、そもそも何故好きなのかの由来、出来事まで掘り下げていくのも難しい。

面白かったから好き、良かったは説明できるが、それが何故面白いと感じるのか、面白くろくないと感じるかの説明をできる人は稀なように思う。クオリアみたいなものか?

 

今回のFF14RPGは好きだが、FF14は別に好きではないから微妙だったという意見を聞いて一理あると思った。しかし思い返してみてもしっかりRPGしていたように思う。FF14が嫌いだから面白いと思えなかったのだろうか?良さという聞こえは客観的だが、その言葉の裏にある、感情が優先された評価だったのだろうか。

漆黒編はRPG好きには刺さるが、暁月編はFF14好きに刺さる。一理ある。

しかし漆黒もFF14という舞台が下地にあり、設定も準拠の物語だった。ただし違いは漆黒は新たな世界からのスタートであり、暁月は今までのFF14の総決算という位置づけで、たしかにFF14というそれまでの積み重ねを回収する物語だった。

FF14という要素が評価軸になっている気がする。

 

面白さ、良さという評価は一見客観性を装っているが、結局のところ当人の価値観という主観性に基づいた評価であるように思う。こうした主観的な意見を言語化する事により、言語化できない人々に刺さった場合それが客観性を持ち、大衆の意見になるように思う。

話が飛んでしまったが、繋がりをどう説明しようか難しい。もう終わろう。また考えて言語化の訓練をしたい。

伝える事

前に書いた事がある気がする。同じ事を繰り返し言うのは、加齢による健忘かより深く記憶したいか自慢か繰り返し伝えたいからである。

 

思考方法はおそらく人によって異なるとは思うが、記憶方法というか何と結びついて記憶しているかも人によって異なる。

僕は映像での記憶が多い。一度見たものは中々忘れない。しかし文字や匂い、味に関しては中々覚えられない。特に文字、固有名詞に関しては本当に覚えられない。

しかし社会で生きていくには記号と共存するしかない。記号とは文字、あるいた社会での共通認識となる言語といったものになる。

音で記憶する事、理解する事は難しくない。身体的なハンディを持っている人には苦しいかもしれないが、基本的に五感に関係するものは直感的で、人の体感として覚えやすいし経験値として蓄えやすい。

しかし文字、記号といった文化的なものは、そのものの意味を理解し扱わなくてはならない、

扱うというのは、つまり人に伝える事、自分以外の存在に伝える事である。

自分だけが理解し、そこで完結してるのではあれば、そもそも記号を扱う必要は無い。アウトプットするというのは、ほとんど全ての場合は外部への出力によって伝える事を目的としている。

何かを学び、そういった知識を吸収、あるいは記憶の為の反芻の目的で書く、入力する事もあるかもしれない。

 

しかしそれは過程であって結局のところ、覚えてしまえばそれっきりだ。

その知識を外部に出力する為には、記号を扱うしかない。他者に伝える為である。自分の中にある知識、経験をアウトプットする為に記号を覚え、扱う術を身につける。

 

文字、記号といった文化は、伝える事を目的としたツールである。社会に生きる為には、この手法を必ず学ばなくてはいけない。そして伝えるのであれば、自分なりにきちんと理解し、伝える為に誠意を持って取り組むことが大切だと思う。

今でこそ上京しているが昔は村に住んでいた。村社会とはネットでよく観られる蔑称表現だが、実際に住んでいた者としては実態もう少し違っていて、もっと粘着的で人同士の繋がりが第一であり、集団行動という洗脳じみた行為を求められる上に、権力的に強い人間に従わなければ普通にハブられるような地域である。

 

迎合しなければまともに生きる事が難しくはあった。それ故馴染めない人間は出ていくか、死ぬか、引き籠るか、自分を捨てて回りに合わせるかのどれかしかない。

 

村社会とは、全く変わり映えしない人間関係が長年続く事で形成されるコミュニティである。

これは村という地域の呼称以外に、あらゆるコンテンツ、とりわけ過疎化されたコンテンツでよくみられる。

長く居続けるが故に、人間同士の力関係が変わる事無く、また居る人間の発言力が強く、周囲にも従う人間以外に残らず、増長したコンテンツ内での振る舞いは常にあり続ける。

一種のマインドコントロールか、あるいは元々そういった人間達が集まるせいなのか。

そういったコミュニティはいずれ淘汰され、社会から切り離されていくのだが、切り離された為に、自活できるコミュニティとなり無法地帯と化す。

コンテンツという人の集まりという認識程度であれば、まだ変化する望みはあるかもしれない。

それが本当の村という、数千人単位の人間社会になると、そうそう変わる事は難しい。

 

興味

たぶん自分は無性愛者なのではないかと最近思いつつある。性的な欲求があまりにも無さ過ぎる。自慰もしなければ夢精もしないし、セックスしたいと考えた事も特に無く、また異性と接してドキドキする事も無ければ、おそらく恋愛的に好きという感情を持った事も無い気がする。

性的な行為、コンテンツに非常に興味を持ち真摯に取り組んでいる知り合いが居る。この方は一見性欲が強いように思われるが、性欲では無く興味が原動力であるようだった。

例えば、性欲を満たす為にコンテンツを消費するのでは無く、初めて経験する、試してみるという興味を満たす為に消費する。動物的な本能、欲求を満たすでは無く、極めて人間的な好奇心を満たす為に行動しているようだった。

この方とは違う方向で、興味が性欲が逸れ、人生に無くてもいいようになってしまったのが自分なのかもしれない。

興味を尽きず、常に思考して、起きている時間は脳は活動し続けている。何をするか、何ができるか、できるとしたらどうしたいかを考えている。研究者になりたかったが、ちょっと今では難しいかもしれない。遅いとは思わないが、単純に金銭的な余裕が無いのと、今はまだ別の考えたい事、やりたい事がたくさんある。

ノスタルジー

昔経験したものを時間を置いて再度敬虔すると懐かしさで一層良さに目が行く。言い換えれば懐古厨でもある。

例えば幼年期に遊んだゲームが僕に該当したりするのだが、SFCのゲームってなんであんなに面白さを鮮明に覚えているんだろうか。

最近出たゲームもおもしろいとは思う。ただ根源的な何かで昔遊んだゲームの原体験を超える事が無い。まあ原体験なので、初めて遊んだものを超える事はないのが当然なわけだが。

この原体験で言えば、最近遊んだものでも記憶に刻まれたものがある。アウターワイルズである。僕はとにかく刺さりまくった。今までの人生でたぶんこれを超えるアドベンチャーゲームはない気がする。今後はあるだろうか。

人の凄さというか、十数万、数億、数百億年先の時代へと紡がれた人の意志、思いが人種や時代を超えていく事の凄さ。人とは何か?魂の在り方、精神性とも言えるかもしれない。人として在るというのは何を定義するか。

死滅する未来というのはあらゆる時代、種族に言える事であり、それは惑星も同じで、いつか滅ぶ。しかし最初からそれを意識している生命は少ない。無意識に生存本能で生殖活動を行っているかもしれない。

しかし種の保存では無く、意志や思いというものが、いつか時代を超えて紡がれていく様は、残した生命には認識できない。だからこそ残すのである。その崇高さ。

いつか死ぬだろうけども、残したいと思って残すものより、目に見えるもの以外でも何か証があれば、それはとても幸せな事かもしれない。